VKsturm’s blog

Twitterの@teslamk2t の長文用

「クソリプ」はなぜ生まれるのか─コミュニケーション論の立場による再定義

1.はじめに

最近Twitterで私は多くの、いわゆる「クソリプ」を貰っている。これらを延々と貰い続けるうちにクソリプがいくつかに分類できることがわかった。そしてクソリプの本質たるものが(自分なりにだが)わかってきたのである。そこで社会学のコミュニケーション論を踏まえつつそれらを簡便に解説していきたい。

 

2.クソリプの再定義

クソリプの分類で一番有名なものはこれであろう。

 

 

ここではジェット・リョー氏はクソリプの「中身」で分類している。 なるほど、確かにクソリプを内容で判断すればこのようになるであろう。

然れども、私はこれはクソリプの本質ではないと考える。私が提示したいクソリプの本質とは「コミュニケーションを取ろうと思い、リプを送るがそれが客観的にクソリプになってしまう」ことである。ジェット・リョー氏の分類で言えば誤解種がこれにあたると思われる。

この論理は一見わかりづらいであろう。しかしクソリプを多く受けているうちに、彼らは彼らなりにコミュニケーションを取ろうとしているのではないかと思うようになったのである。そしてコミュニケーションを取ろうとして、結果としてコミュニケーションが成立しないリプライ─つまり歪められたコミュニケーション─が発生する、これこそをクソリプと再定義したい。ジェット・リョー氏が述べている自己顕示種やイチャモン種は自分語り・暴言として扱ってもいいと思われる。自己顕示の構造がなぜ生まれるかは前回の記事(ミリオタの「攻撃性」について─エリート主義と文化資本からの考察 - VKsturm’s blog)で考察したのでぜひ読んでいただきたい。イチャモン種はその名の通り他人にイチャモンをつけることだけを目的としており、これはコミュニケーションではなただの暴言である。この暴言も自己顕示系と同じく、とにかく相手を罵倒して自分の地位を向上させようとする者であろう。まるで与党を感情的な言葉で批判するばかりでろくな代案を打ち出せない野党のようだが、かかる構造はそこら中にあるのである。

次の章ではこの歪められたコミュニケーションを詳しく説明するためにコミュニケーションの本質を説明し、その後なぜ歪められたコミュニケーションが発生してしまうのかを述べたい。

 

3.コミュニケーションの本質─齟齬だらけの日常会話─

歪められたコミュニケーションを語る前にコミュニケーションの本質を説明せねばならない。『国際関係紀要』第12巻第3号所収における論文『歪められたコミュニケーションとコミュニケーションの隠れた次元』でコミュニケーション論が述べられているので主にこの意見を引用しながら説明したい。もちろんコミュニケーション論と一言に言ってもソシュールから連なる膨大な歴史があるのでここで紹介するのは其の一面にすぎないことをご容赦願いたい。

さて本題であるが、コミュニケーションの本質とは次のようなものだという。

ある場面でのコミュニケーション行為におけるある単語の使用を考えると、そこでは、誰もが、同一の字義的意味を、他の場面と同じように、共有して、用いている訳ではない。そもそも単語の意味の理解は、個人的な解釈の要素を含んで成立している。犬という単語を聞いて思い浮かべるのは、ある人はコリー犬であり、ある人はシェパードでありうる。また、ある人はかわいい動物であり、ある人はうるさい動物でありうる。次に、特定のテーマについての話し合いも、文脈の中で、さまざまな意図を持って行なわれる。そこでの了解は、参加者が各々に解釈しつつ、互いに意味を確認し、共有し合うことを前提として成立する。子どもが大人や友達とのコミュニケーションを通して言語を学んでいくように、われわれは、コミュニケーション場面で、それまで身につけた言語の意味を拠り所にしつつ、確認し、新しい意味を学び、さらに、意味の形成に参加しているのである。

つまりコミュニケーションにおける単語使用はそれまでの自分の知識・経験、そして今置かれている「状況」判断に依拠している。例えばシェパード犬を散歩させている友人に道であったとする。彼が「うちのペットはヤンチャで困ってるんだよね」と言った場合、「ペット」は今連れているシェパード犬だと「想定」するだろう。我々が普段行っているコミュニケーションもこのように単語の意味や文の意味を「想定」しながら行っており、厳密な意味で100%の共通理解が行われていることは絶対にないのである。ビジネスの場での契約のように「日時・納品数・納品内容」等焦点を絞って何度も確認しながらを行うことである程度の共通理解は得られるが、ビジネスマンならわかるようにしっかりした契約書を作成しても往々にして取引に齟齬が生じることがある。このような契約書をつくらない日常生活でのやり取りでどれだけ齟齬が生じているかは想像に難くないだろう。先の論文を引用すれば「現実のコミュニケーションは、実のところ不確定性に満ちている」のだ。

ではなぜ日常生活でたくさんの齟齬が発生しているのにも関わらずコミュニケーションが成立し得るかといえば、それは我々は「同一性」の集団にいるからである。高校や大学を思い浮かべていただければわかりやすいが、我々は学力水準や社会的階級等が似た集団に属しているのが普通である。しかもこのうちで「友達」と言えるのは更に趣味や嗜好が似通ったもの、ほぼ同質と言っていい集団だ。これらの集団内では常識や共通前提、社会的階級による認識等が共有されている。つまり、同質の集団にいるからこそ、会話において齟齬が生じても、その集団内の常識や前提で是正することができるのである。例えば大学の化学系の学生が研究室の同僚(ラボメン)にLINEで「明日の勇気の対策してないわー」と言ったとする。ラボメンは「ああ、有機を勇気と間違えたんだな、テスト対策していないんだな」と即座に理解できるだろう。これは同じ大学なので、明日有機のテストがあることを知っていること、化学系の学生なので有機/無機という言い方をよくすることを知っているからこそ理解できるのである。もし他大学の文系に見せても理解できないだろう。このようにコミュニケーションは齟齬が生じても常に自分の知識や状況判断で是正しながら理解することで、「成立している」と感じるのである。何度も言うように実際は齟齬だらけのコミュニケーションを両者が勝手に自己判断で是正しながら行っているわけだが、日常生活でそれらに気づくことは稀だろう。それだけ我らが脳みそが自然に処理を行っているというわけだ。

次の章では本章の内容を元に、本筋の歪められたコミュニケーションを説明していきたい。

 

4.歪められたコミュニケーション─クソリプの発生─

ここまで読んできた諸君らは既に気づいたかもしれないが、クソリプの発生原因は同一性を超えた集団との接触である。つまり、コミュニケーションで必須となる是正が有効に行えない相手─知識や前提を共通していない相手─との接触が起きることでそこにクソリプが生じてしまうのである。

Twitterは人類史において稀有なツールである。ネットの発展で「世界中の人がつながった」と考えるのは間違いである。草の根BBS2chmixiフェイスブック…全てが同一性を根拠とするものだった。例えば草の根BBS2chでは話題ごとにスレッドが別れており、スレッド内の集団は同一の話題に興味が有るものだ。「ライフル銃を語るスレ」にはライフル銃に興味がある者しか集まらないし、「マツダの車愛好者スレ」にはマツダ好きしか集まらない。招待制と「マイミク」制度の合ったmixiは更に同一性の濃い集団であることは簡単に想像できるだろう。フェイスブックもリアルの関係をネットに反映させるもので、ここにも同一性が存在する。つまりこれまでのネットというのはなんだかんだいって、リアルの人間関係のように同一性を根底においたものであった。そこでは前提条件や知識は共通されていた。例えば「マツダの車愛好者スレ」で「ミッション」という言葉を聞いたらスレの住人の誰もが「車のトランスミッション」のことだと捉えるだろう。しかし「キリスト教を語るスレ」のスレ住人はこれを「キリスト教の福音」という意味で捉えるだろう。このようにネット内でも、現実世界のコミュニケーションと同じように同一性の集団が根底にあったため特に問題が起きなかった。

しかしTwitterはこれらと異なる。なるほど、Twitterはフォロー/フォロワー(F/Fと主に称される)という関係で同一性の集団を築けているように思える。しかしTwitterが他のものと違うのは「RT」という制度だ。RTをすればF/F外へ一気に拡散する。つまり同一性の集団を離れてツイートが拡散されてしまうのだ。これにより、共通の前提や知識がない者、異質な者にまでツイートが届く。この時、歪められたコミュニケーション、つまりはクソリプが発生しうるのである。

さて先の論文は異質な者とのコミュニケーションが失敗する場面をいくつか上げている。そのうち重要なものを取り上げたい。

1.「知らない」:単語を知らないことで起きる。例えば「業界用語」「専門用語」「若者言葉」を知らない世代と若者のすれ違いがある。直近の例では自衛隊暴力装置といって炎上した政治家がを思い出すことができるだろう。政治学や社会学では警察や自衛隊暴力装置と称するのはもはや常識であり、当然だがそれ以外の者にはこれは「自衛隊を貶めている」言葉として捉えられてしまった。

2.「理解できない」:これは、相手の言わんとする話の筋道、論理が分からないという現象である。言語も知識も共通している。しかし、なぜAという前提からBという展開があり、さらにCという結論が導かれるのかが理解できない。こうした状態は、文化的背景について知らないという場合にも起こり得る。幼児が話の難しい内容を理解できないという場合のような認識能力の不足もある。異文化間、同一社会内での下位文化間の文化格差にはこの例も含まれる。「最近の若い者は何を考えているのかわからない」という年配者の発言は、この例を示している。

Twitterのクソリプもまさにこれである。この2つの要素、すなわち「知らない」「理解できない」によって起き得るのである。私が冒頭で再定義したようにクソリプとは「歪められたコミュニケーション」であり、あくまでリプライによって何らかのコミュニケーションを取ることを目的としている。イチャモンを付けたいだけのものは野党のヤジと同じで暴言でありコミュニケーションではない。自分のツイートに対して素っ頓狂なリプライが来たり、文の意味を全く理解していないリプライが来るのも異質な者との接触であって、両者の共通前提や知識が噛み合わず、また文化的背景を知らないからである。約言すると、両者の前提・文化的背景が異質なため日常生活で普段行うコミュニケーションのように齟齬の是正ができず、ツイートが本人の意図とは全く異なった意味合いや文脈で取られてしまう。誤った意味で取られたツイートに対して真摯な態度でリプライを送ろうが、ツイートの意味を汲みとっていない時点でそれは客観的に見れば「クソリプ」となるのだ。試しに何千RTもされているツイートに寄せられるリプライを見ればよい。この例を数多く見ることができるだろう。私は、私が再定義した意味での「クソリプ」はこのように発生すると考えている。クソリプとは相互理解に失敗した上で行われる正常な態度でのリプライに他ならない。クソリプに悪意はない。あるのは異質な者同士がRTで接触した事による相互理解の失敗だけなのだ。

あなたがフォロワーの皆さんと交わしているリプライも一歩その同一性の集団を離れればクソリプとなるだろう。クソリプを送る者もあなたと同じ「良識ある」者なのだ。クソリプマナー論は何の役にも立たない。なぜならクソリプを送る者はそれをクソリプと思っていないからだ。双方が「礼儀正しく、真面目にコミュニケーション」を取ろうとしても齟齬が生まれ、是正されず、結果としてクソリプとなってしまうのだ。どうかこのことをご了解願いたい。クソリプに悪意はあらず。あるのは失敗したコミュニケーションのみ。『伝説巨神イデオン』の白旗の件を思い出していただければわかりやすいと思う。どちらも自分なりに正しいコミュニケーションを取ったはずなのに、相手にはクソリプとなってしまうのだ。

 

5.終わりに

従来クソリプは悪意あるものとして見られてきた。しかし「自己顕示系」と「イチャモン系」は自己顕示欲の発露と暴言であり、実はクソリプとは歪められたコミュニケーション、失敗したコミュニケーションなのだ。

本文中言及しなかったが、現実世界におけるコミュニケーションでは身振り手振り、表情等も交えて行われる。それがどれだけ相互理解に役立っているか。Twitterにはこれらの要素がないため他者理解はより困難となる。相手が怒っているかのか、悲しんでいるのか…リアルでフェイス・トゥ・フェイスで会話しているなら誰でもわかることが、文ベースだと途端に判断が難しくなる。Twitterにおいても同じである。

クソリプなる現象はまさにTwitterの特徴といえるだろう。TwitterのRTという仕組みが生み出したものこそがクソリプなのだ。フェイスブックにもシェアがあるが、フェイスブックにクソリプが来ないのは発言内容が現実世界との関係を引きずっており、「ありふれた」ものにならざるをえないこと、また拡散しても「友達の友達」程度の集団までが関の山でまだ同一性が辛うじて保たれていることも関係している。

クソリプの対処法…これは厄介だ。先に述べたようにクソリプは悪意なきもので、気をつけていても結果としてクソリプになってしまうのだから。あえて言うならば、RTして回ってきた意見、そしてそのツイート主に対してコミュニケーションを取りたいときは相手のTLを遡ってみて文脈や単語の使用方法をチェックし、相互理解に励む。相手のプロフィールをチェックし何クラスタに所属しているか確かめる、等があるだろうか。もっとも、私はこれらの努力を各員が励んだとしてもクソリプは残り続けるだろうと思う。論文でも述べられているように「理解能力の差」「世代差」の問題もある。インテリのツイートを我々庶民が完全に理解できるわけがないのだ。また高齢者・小中学生のツイートを我々(私と同じく20代と仮定している)が真に理解できるとも思えない。私はRTして回ってきたツイートにはリプをしないようにしている。根本的にはこのようにするしかないのかもしれない。

ここまでTwitterの持つ異界との接触とでも言うべき現象を否定的に述べてきたが、逆に言えばこれは見識が広がるということでもある。本屋に行って、自分の好きなジャンル以外の良本をたまたま見つけたことが誰だってあるだろう。海外SFしか読まなかったものが、気になる旅行記を偶然見つけて買ってみたり…。このような良い現象も起き得るということだ。TwitterのRT制度には欠点もあるがこのように利点もあるため一概に善悪をつけることは不可能だろう。いずれTwitterも廃れるだろうし、その前にRT制度も変更などがあるだろう。次のSNS─もっともSNSがこの先存在し続けるとも限らないが─でもこのように異界との接触が起き得る仕組みが備わっていると良いと思う。かかる現象は大切にしていくべきだ。もちろん苦難も共にあるだろうけれども。

 

参考文献

『国際関係紀要』第12巻第3号(『歪められたコミュニケーションとコミュニケーションの隠れた次元』を収録)

・佐藤毅著『現代コミュニケーション論』

ジンメル著『社会的文化論』

 

以下:完全な私的意見、論拠なし、偏見あり

 

 

 

クソリプ悪意ないってわかってても心に来ますね。私の心が狭いんでしょうか…脆弱な精神をえぐるクソリプはやめてほしい…もちろん自己顕示・イチャモンは論外です。狭い村落社会は欠点もありますが、クソリプ的な現象はおそらくないという利点はありますね。まあどっちがいいのかは…うーん、わからないですが…人生はろくなもんじゃねえ(サンホラ)