VKsturm’s blog

Twitterの@Kohler_volntの長文用

ミリオタの「攻撃性」について─エリート主義と文化資本からの考察

※例によってとても長いです

 

1.はじめに

ネット上ではオタクは攻撃的だという言説に満ちている。私は軍事オタク(ミリオタ)であるので必然的にミリオタとはよく接するのだが、特にミリオタは攻撃性が高いと話題になっている。

例えば、このようなトゥギャッターまとめさえ存在する。

togetter.com

このまとめの要旨は大手のミリオタ、つまり「アルファ」が攻撃的であり、我々非アルファは「優しいミリクラの会」を結成し万人に優しくしていこうというものだ。こんなまとめができるほど、そしてTwitter内のミリオタの内部からそれが指摘されるほどミリオタの攻撃性は問題になっているようだ。

ところで、このようなミリオタの攻撃性というものは実はオタク全般に見られる傾向なのである。今回の記事ではなぜオタクが攻撃的なのか、そしてミリオタはなぜその中でも危険視されるているのかを客観的に解説していきたい。

この記事の論拠となるのは岡田宏介氏が著した『音楽――「洋楽至上主義」の構造とその効用』という論文である。この論文中では洋楽至上主義とでも言うべき洋楽オタクたちの排他性や攻撃性が詳細に研究されているのである。これらの洋楽オタクたちの性質とその根源を解説した上で、ミリオタという個別具体的な例を研究していきたい。重要となるキーワードはエリート主義文化資本、この2つである。

 

2.オタクのエリート主義とその根源

ここでは岡田の論文の内容を簡単に説明していき、オタクのエリート主義について解説してきたい。

突然であるが、あなたはこのようなオタクを見たことがないだろうか?

「自分の好きな音楽や漫画、映画などをやたらと勧めてくる人間」、「洋楽(この場合は英米ポピュラー音楽、またはそれに影響を受けた音楽体系を指す)を神のように崇め、布教し、邦楽をこき下ろす人間」…。

彼らに共通するのが自らのアイデンティティをそれらのポピュラー文化に求め、それらのポピュラー文化を知っている「自分」をエリート主義的に捉えているという点である。

かかる論理はフランスの社会学ブルデューディスタンクシオン論の影響を受けている。すなわち、欧米のような明確な階級社会においては趣味や嗜好が階級毎に別れており、明確な差異(distinction=ディスタンクシオン)が存在するという論説である。この場合の趣味や嗜好というのは例えば上流階級はクラシック音楽や絵画鑑賞(いわゆる高級芸術)を好み、下流階級はポピュラー音楽やゴシップ誌(サブカルチャー)を好むといったようなものである。日本においてもこれらの傾向は存在するとされ、武蔵野大学の舞田敏彦のブログで研究されている。(データえっせい: ディスタンクシオン

このディスタンクシオン論では比較対象は高級芸術とサブカルチャーというものであった。岡田はこのような「差異」はサブカルチャー、ポピュラー文化内でも存在しているという。つまり上流階級が下流階級を高級芸術の教養があるかどうかで区別したように、日本においてはブルデューで言うところの下流階級である我々の内部、つまり下流階級同士も趣味や嗜好で区別しあっているのである。

この理論は比較的わかりやすいと思う。実際我々はお互いをポピュラー文化の趣味嗜好で区別しあっている。わかりやすいのが岡田が例にあげているように洋楽オタクである。彼らはポピュラー音楽内でも「英米のもの(洋楽)」「日本のもの(邦楽)」と区別し、邦楽を見下す傾向にある。このようなエリート主義的傾向を持つ者はあらゆるジャンル─例えば映画オタクなどがわかりやすいだろう─に見出すことが可能であろう。

では彼らがどうしてそれらのポピュラー文化に自らの卓越性を求めうるかと言えば、それはそれらのポピュラー文化(例えば国内市場シェアが少ない先述の「洋楽」等)が、マイノリティによって支えられており、その数的マイノリティ性がそれ自体に付与される美的価値を増大させ、その数的マイノリティゆえにもたらされるエリート主義的傾向を、ますます強化することになるからである。

加えて、先にあげた社会学ブルデューによれば、「クラシック音楽等の高級芸術はその鑑賞に美的努力を要求し、その結果として生じる満足を刺激する」という。

クラシック音楽を楽しむには作曲者の経歴や時代背景等を知っていなければならない。これらの鑑賞にあたって必要とされる美的努力はポピュラー文化の一部にも当てはまり、例えばサブカルチャーにおいてはその作品の歴史的意義や作品的価値を語りかけるメディア上の諸言説が、往々にしてセットとなって存在し、評価されるのである。これらは『新世紀エヴァンゲリオン』や『機動戦士ガンダム』に付随する大量の言説を見れば明らかだと思う。『エヴァ』を語る際にポストモダンセカイ系という言説を避けることが出来ないのと同じで、これらのサブカルチャー作品においても鑑賞には一種の美的努力が必要となってくる。

更にこれらのメディアの言説空間に参入するためにも、もっと言えば、それに付随する読者共同体(ファン共同体)に参入するにも共有言語・共通感覚とそれ相応の知識、文化資本が必要とされる。もしそれらが無ければ会話さえままならないだろう。これらはTwitter内の「クラスタ」を思い浮かべればわかりやすい。各クラスタ内で独自の文法が存在し、必要とされる知識がある。そして、こうした点もポピュラー文化に詳しい者、すなわち「オタク」のエリート主義を推し進め、卓越化の根拠として提示されるのである。洋楽至上主義なるエリート主義はこのようにして誕生したと岡田は述べている。

ここで特筆すべきは、高級芸術の美的努力とこれらポピュラー文化の美的努力の大きな違いは、ポピュラー文化の場合の「努力」は極めて日常的で具体的な文脈と実践の中で行われるという点であるが、ここでは話の本筋ではないため別の機会に述べるとしよう。

3.オタクはなぜ攻撃的なのか

ここまでポピュラー文化に精通した者、すなわちオタクのエリート主義について述べてきた。では本題に入ろう。彼らはどうしてそれら個人的趣味を人に押し付けるのか?また共同体外を攻撃するのか?

それは、オタクの持つポピュラー文化に対する知識や感性、いわゆるポピュラー文化資本と呼ばれるものが実生活に役立ったり、その保有者の社会的地位を向上させることには繋がらないからである。

例えば、どれほど映画の知識があろうが、漫画の知識があろうが、だからと言って一流企業に入れるわけではない。(もちろん恵まれた一握りのオタクはこれらの知識を職業面で活かすことは可能だが、その数は遥かに少数であることは言うまでもないだろう)

つまり、オタクの持つ文化資本をより実利的な経済資本へと転化させることは、実質的に不可能と言って良い。

だからこそ、彼らはその保有する知識を少しでも生活、とくに人間関係の中で生かそうと、周りに自らのポピュラー文化資本に精通していることをアピールするのだと岡田は述べている。「私はこんなにマニアックなものを知っている。凄いだろ?お前たちより俺は詳しいんだ。すごいんだぞ。」という風に。そして相対的に知識が少ないものをエリート主義から見下し、批判・揶揄する…。これらはミリオタでよく観察されるが、岡田が言うように洋楽オタクも洋楽至上主義により邦楽オタクを馬鹿にして突っかかり、貶し、それにより自らのポピュラー文化資本への精通度をアピールしていた。つまりこれらのオタクの攻撃性は、オタク全体の有する性質と言っていいのである。ブルデュー的に言えば、これらの攻撃性も「ディスタンクシオン」に規定されたものであり、これらの攻撃性態度さえ紋切り型なのである。

このようにして外部に積極的に自分の趣味をアピールし、そして攻撃的になる現在のオタクが出来上がった。それも自分の持つポピュラー文化資本を少しでも生活に役立てようとする心理からなのである。昨今流行りの「自己承認欲求」という言葉を使うことも可能だろう。

 

4.ミリオタはなぜ特に危険とされるのか

今までの論説は基本的に岡田の論文を簡略化したものであった。岡田は洋楽オタクを研究したものの、ミリオタは研究していない。つまりここからが私の独自論となる。

端的に言えばミリオタが攻撃的なのは、他のポピュラー文化よりもミリタリーにおいては客観的事実が非常に重視され、それによって知識量の優劣ではっきりと「差異」が生まれるからだ。ここではミリタリー知識はポピュラー文化資本と位置づけているが、ミリタリー知識は自衛隊防衛省においては職業で必須の知識であり、また軍事評論家などは経済資本に活かすことが可能であるのは言うまでもない。ここで解説するのは、このような経済資本に転化することの出来ない私のようなミリオタの場合であることを承知してもらいたい。

これまで述べてきた洋楽オタクとの対比をしてみよう。例えば洋楽オタクがTwitterでこのようなツイート─「Dream TheaterはSymfonyXより演奏がうまいね」─を見つけたとする。この場合洋楽オタクは個人的な心情によって突っかかることはあるかもしれないが、大方無反応だろう。音楽において演奏の優劣は簡単には付け難く、しかもプロのバンドとなればほとんどのバンドが卓越した演奏能力を持っているのが普通である。これらのバンドの演奏技術は結局は主観的意見で決まってしまうのであり、それに対して外野からもあまり意見を出せないのだ。主観的意見の水掛け論に発展し、永遠に結論がつかないからである。

(※Dream Theater、SymfonyXともに洋楽の有名バンドである)

一方ミリオタがこのようなツイートを見つけたらどうだろうか。すなわち「I号戦車V号戦車パンターより強いね」のようなツイートである。ミリオタなら突っ込みたくなるだろう。兵器には一般的に性能諸元があり、それらの客観的事実によって比べるのがミリオタ内の「文法」なのだ。いくら主観的意見だと断って「I号戦車V号戦車より強い」と述べてみても、ここでは通用しない。繰り返すようにミリオタの内部では客観的事実が最優先され、 洋楽オタクの場合のように主観的事実は考慮されにくい。この結果、ミリオタはミリタリーに関しては公式資料・公式記録などの客観的事実を元に、容易に「自らのポピュラー文化資本をアピールする」ことが可能となる。主観的意見が発生しにくいために知識ある者が知識のない者を「打ち倒せしてアピールできる」状況が他のポピュラー文化資本より発生しやすいのである。

(※I号戦車V号戦車と共に有名なドイツ軍の戦車である。V号戦車の戦闘能力はI号戦車を圧倒しており、客観的に考えてI号戦車に勝ち目はない。I号戦車V号戦車の例は極端な例だが、実際はもっと細かい差異をめぐって日々論争が起きている)

このようにして、ミリオタは他のオタクよりも攻撃性が高いとみなされてしまう。つまり極論で言えば「他人にツッコミを入れやすい」ジャンルなのである。先に述べたようにこれらのツッコミを入れるということさえブルデューに言わせれば「ディスタンクシオン」に規定された行為だ。我々は無意識にこれらの行動を行ってしまうのだ。(他人にツッコミを入れて全員でその話題を共有することで一体感を高めるというのはミリオタ特有のものではないが、ミリオタにおいて顕著に見られるのは指摘されるべきだろう)

 

5.終わりに

本稿ではオタクのエリート主義と文化資本という2つのキーワードからオタクの攻撃性、そしてミリオタの攻撃性について説明してきた。何度も述べているように、そして岡田が言うようにポピュラー文化資本に精通するオタクはそもそもが攻撃的性質を持っており、ミリオタの場合それが客観的事実が何より重視されるために顕著なのである。

しかし諸君らはこう思うかもしれない。「なるほど、オタクはエリート主義的部分があり、文化資本を活用したいがために攻撃性を発揮すると。そしてミリオタは客観的事実が優先されるためにそれがよく現れていると。しかしミリオタはそれにしても異常ではないか?一般人にあれだけ突っかかるのは正気の沙汰とは思えない。アルファツイッタラーの個人的資質もあるのではないか?」と。これについて私も色々思うことがあるものの、ミリオタ以外のジャンルのアルファツイッタラーの言動を把握しきれていないため、言及しなかった。機会があればこれらについても解説していきたい。またミリオタ発達障害説という言説(ミリオタには自閉症スペクトラム障害のものがおおいのではないかという説。鉄オタに知的障害者が多いという説との類似性がポイントとなろう)もネットで散見されるが、こちらについても調査不足のため言及しなかった。ご容赦願いたい。

 

 

自分もミリオタだから思うのだけども、「優しいミリクラの会」ではないが、なるべく穏健派として生きていきたいな、と此の糞長い記事を書いてて思いました…みんなも優しくなろう…

 

参考文献(順不同)

佐藤 健二 ・吉見 俊哉 編『文化の社会学』(岡田の論文を収録)

ブルデュー著『ディスタンクシオンI 社会的判断力批判

同上『ディスタンクシオンII 社会的判断力批判

石井洋二郎『羨望と欲望─ブルデューディスタンクシオン』を読む』