VKsturm’s blog

Twitterの@Kohler_volntの長文用

アルファの好戦性の構造分析─ジンメルの『社会学』から

1.はじめに

 突然だが、Twitterにおけるアルファツイッタラー(以下アルファ)を知っているだろうか。「アルファか…あいつだな」などと何人か思いつくのではないだろうか。そんな彼らを見ていて、好戦的だなぁ、と思ったことはないだろうか。具体名を上げれば…いやそんなことをする勇気はないので個別具体的な垢名や事例などはことさら取り上げないが、とにかくそのような感想を抱いたものも多いだろう。これからは「アルファは好戦的な人が多いなあ」という感想を持っている方向けに話を進めていきたい。彼らがなぜ好戦的なのかを社会学的側面から論及するものである。もちろん、社会学的側面から、というからには他の側面(極端な例ではDSM-Vを用いた精神医学的側面など)もできるだろうが、今回は社会学に絞って述べていきたいと思う。加えて、今までは長々と記事を書いてきたが今回は簡潔にまとめるよう努力したい。

 

2.アルファと取り巻きの概説

 改めて詳しく説明する必要はないと思われるが、一応触れておく。Twitterにおけるアルファについて簡潔に述べると

1.フォロワー数が大変多い(明確な基準はなく、1000人以上いればアルファと考える人もいるだろうし、1万人からがアルファと考える者もいるだろう)

2.大抵は「取り巻き」「信者」と呼ばれる熱心な信奉者を従えている。彼らはナポレオンの老親衛隊やイギリスの近衛兵が親愛なる主君のために文字通り死に物狂いで戦い、しばしば戦場で決定的役割を見せたように、Twitterにおけるアルファの従順な下僕にしてその暴力装置と化している。アルファがTwitterにおいて「強い」とされるのはこの一種のネット的暴力装置によるものである。

3.これらの構造からアルファと熱心な信奉者たちはフォロー/フォロワーというTwitterにおける機能的側面を超えた、一種の「社会的集団」を形成している。

の三点であると言えよう。約言すればアルファは取り巻きがいるから強いのであり、アルファと取り巻きは一種の連帯的組織であって、独立した集団となっているのである。

 

3.集団における抗争状態

 話の本題に戻ろう。アルファの好戦性についてである。単純に表層的見方をすれば「アルファは取り巻きがいて、何を言っても称賛・同意を得られるから調子に乗って好戦的になる」といえる。しかしそれだけだろうか?このような集団における抗争について社会学者のジンメルは著書『社会学』で興味深い話を述べている。

 抗争は、現にある統一体をいっそうエネルギッシュに集中させ、敵との明確な境界をなくしてしまいそうなメンバーを徹底的に排除させるというだけではない。さらに抗争は、他の場合にはお互いまったく何の関係もなかった人々や集団を、一つの結合にもたらすのが常である。

 抗争を通じて集団が一つに結合し、または「集団が形成(結合)」されるという論理はわかりやすいだろう。例えば、普段愛国心の欠片もない人間が、ワールドカップなどの国家対抗戦になると熱心にTVで観戦し、日本国旗を振り回す。またはある国家が国内の不満解消のために仮想敵国を設定し盛んに脅威を訴える。往々にしてそこらじゅうで観測できる現象である。つまりある一つの見た方では「アルファは取り巻きの結束を高めるために敵を想定し、抗争せざるを得ない」と言えるだろう。それはまるで北朝鮮が支配を保つためにアメリカを仮想敵国として喧伝し続けねばならぬように。

 だがジンメルはこの理論を更に進めている。彼はまたこう著述する。

集団形成の社会学的な意味にとっては、次の二つの場合の間に本質的な相違がある。すなわち、外部の権力に対して集団が全体として敵対関係に入り、それによってさらに集団結合の緊密な収斂と集団の統一性の高揚とが意識と行動のうちに生じる場合か、それとも多数のメンバーがそれぞれ単独に一つの敵を持ち、この敵がメンバー全てにとって同じであるという理由から、そこに初めて全メンバー間に連合が生じる場合か、の相違である。

前者の場合、つまり外敵に対して全メンバーが結合して抗争状態に入るのであれば、全メンバーは確かに結合し、不調和は減ずる。その代わり平時には信じられないような事態をもたらす。つまり集団状態が極限に達し、その度合を強めるのであるのだから「成員たちは完全に和合するか、さもなければ完全に反撥しあわなければならない」とし「時には全体を決定的に崩壊させることともなる」のである。歴史上の実例を挙げれば戦中の日本が挙げられる。日本国内では戦争に少しでも反対するものは「売国奴」として排斥された。このように抗争状態の集団は極度に結合し、メンバー全員が互いに結束し合い、通じあっているのだが、その影では少しでもその考えに反対していたり疑問を持っているメンバーを徹底的に排除している仕組みがあるのである。

 だがあらゆる抗争状態にある集団が「不調和のメンバーを排斥する」わけではない。これらは元々集団が持っていた寛容性も関わってくる。もともとが多民族国家であるアメリカなどは「国民国家」である他国に比べて寛容性が高いとされている。例えばWW2のさなかドイツ系とイタリア系を彼らは(表向きには)排斥しなかった。(一方日系人は排斥されたのであるが)。

これらが集団の抗争状態に対するジンメルの意見である。では次章でこれらを踏まえてアルファの好戦性について述べていこう。

 

4.アルファの好戦性の発揮と抗争への取り巻きの期待

 ジンメルの集団の抗争にTwitterを当てはめると、まずTwitterのフォロー/フォロワーという関係は「完全なる同一の趣向を持つ」者が「100%結合している」わけではない。例えば鉄道オタクは同時にジャズオタクでもあるだろうし、海外文学オタクは料理オタクでもあるだろう。彼らはある一つの趣味などにおいて結合を有するが、全ての趣味が全く同じで、完全に同質であるとは考えにくい。最も、逆に言えばある程度の同質性は有しているのであるが。そしてこれらのゆるい関係が一度抗争状態に入れば、もっといえばアルファの攻撃命令で一気に結合するのは言うまでもない。

 ではなぜアルファはあそこまで好戦性を発揮するのか?例えばクソリプを貰って反応するのはわかる。しかし人によっては弱小ツイッタラーの些細なツイートまで探しだし、猛烈なる攻撃を加えるではないか。まるでベトナム戦争のサーチアンドデストロイのように。その理由は何なのだろうか。

 ここで先のジンメルの「外部の権力に対して集団が全体として敵対関係に入り、それによってさらに集団結合の緊密な収斂と集団の統一性の高揚とが意識と行動のうちに生じる」という言葉を思い出してもらいたい。外部の敵を見つけ出し、集団が抗争状態に入った時、メンバーは集団の統一性の高揚とを感じる。もっと言えばアルファとの統一を感じる。まるでキリスト教徒が敬虔な儀式を通して神との、教会との一体性を感じるように。そしてこれらの意識は往々にして甘美なものだ。ある何か権威ある存在と同一化するのは精神分析学的には自己同一化というのだが、とにかく簡潔に言えばかかる行動は非常に心地よいものであるのだ。ある集団に属すること、そしてそれを感じることの心地よさは「制服」を着る職業に付いているものならば容易に実感できるだろう。自分がその集団内の立ち位置がどうであれ、その集団に属していると実感するのはなんとも言えない高揚感を得られるものだ。あるいは、スポーツバーなどでみんなで一緒のユニフォームを着て、日本を応援している時に感じるあの感覚。国家への同一化、自らが満たされる気持ち…これらは全て同一の根源からなるものなのである。

 もっと極端に言おう。アルファと一緒になってある外敵に対して戦うのは「楽しい」のだ。圧倒的権威であるアルファと一体化し、または後ろ盾を得て、ある敵と戦う。彼らにとってはアルファは神であり、アルファの攻撃命令は聖戦である。アルファの神の言葉にしたがって聖戦をしている最中に感じる感情は如何ばかりか。これはネットで炎上している人を袋叩きにするあの快感を知っているものならば否定出来ないだろう。炎上している者を大多数が、正義の名のもとに叩く。共に炎上させる快感。自称良識派の諸君らもこれは否定できまい。そしてこれらはある種の「ネットの醍醐味」であり「ネットの娯楽」でもある。

 もうわかっただろうか。アルファは従える集団から常に「パンとサーカス」を要求されているのだ。彼らにとってアルファは神であり、皇帝であり、全てであり、宇宙そのものであるが、同時に娯楽と自己同一化を与えてくれるものである。そしてその手段は抗争なのである。アルファが外敵を見つけて抗争状態に入るとき、取り巻きたちも集団として抗争状態に入り、同時にそれは彼らに高揚感をもたらす。そしてアルファにとっても取り巻きが自分にしたがって戦ってくれるのは快感だ。Twitterにおける集団の抗争は(敵とされたものにはたまったものではないが)利点しかないのである。

 もちろん、何度も述べているように集団内の、抗争に不調和のメンバーは排斥されるだろう。そしてこれによって皮肉なことに更に集団内でアルファへの敬意は濃縮され、そして其れとともにアルファと自己同一化した時の快感は増幅され、その自己同一化の快感のために抗争を欲する。確かにアルファは調子に乗って好戦性を持っているのかもしれないが、集団内からの圧力を受けてもいるのである。例えば私はあるアルファが取り巻きから「こんなこと言ってる奴いたんですけど、どう思いますか?」と情報提供を受けているのを見たことがある。この取り巻きは明らかにアルファによる抗争を望んでいた。抗争状態に陥ることで得られる高揚感を目的としているのは明らかだ。炎上させた時のあの快感を求めているのだ。そしてアルファも集団内の統治のために、そして個人的快楽のために、この抗争状態を引き起こしてしまう。いや引き起こさざるを得ないのだ。ジンメルが言うようにもし集団内の抗争状態をコントロールできなければ「時には全体を決定的に崩壊させることともなる」のだ。実際、直近の例で「決定的に崩壊した」絵師のアルファもいた。ともかく、アルファはコントロールのためにも自ら率先して、なるべく「勝てる相手」に食って掛かるしかない。もちろんアルファ本人がここまで理解していることは稀だろう。だがこれが集団というものの恐ろしさである。

 

5.まとめ

 アルファが好戦的なのは彼の取り巻きが、構造がそれを望んでいるからだ。集団の指導者というのは常に一方的でいられない。独裁者でさえ民衆の動向に影響を受ける。アルファも取り巻きの期待に(意識してか意識せざるかは別として)影響を受けざるを得ない。アルファはもはや集団の指導者が、集団に与えなければならない娯楽として抗争を引き起こさなければならない。もちろん抗争を引き起こしやすいのは「アルファ自身が調子に乗っている」「好戦的な者こそが信者を獲得し、アルファになれる」というのもあろうが、このような構造もあるのだと私は考える。

 権力を得た人間は道を違える。世界史を紐解けば権力に狂った者が何人もいる。Twitterにおけるアルファもその「超小規模版」にすぎないのかもしれない。彼らは集団の抗争により、結束を高める。そして同時にその快なる抗争を望んでいる。ああ、そこに救いはないのだ。アルファよ、そして取り巻きよ、平穏があらんことを…。我々もいつの間にか誰かの取り巻きになっているかもしれない。そして抗争を望んでいるかもしれない。気をつけなければならない。ネット炎上を見るとき私は常にそれを考える。

 

参考

G.ジンメル著『社会学─社会化の形式についての研究』

R.K.マートン著『社会理論と社会構造』

 

 

以下駄文

なんか酒ガバガバ飲みながら一気に書いたので後で全面的に編集するかも。いずれにしろアルファは怖いずら!