VKsturm’s blog

Twitterの@Kohler_volntの長文用

社会学・政治学・哲学・精神分析学等小ネタまとめ

Twitterでいろいろ長文ツイートをしていたもの(3月末~4月末分)のまとめです。一部加筆修正していますが、フォロワーの方は一度見たことあるものだと思います。内容は思想・政治学・社会学、ごっちゃです。また各種本の引用で成り立っており、自分も詳細に何から引用したのか覚えていないところがあります。ご容赦ください。「この分野面白そうだし読んでみようかなぁ」と思えるようなものがあったら幸いです。

 

1.ミヘルス/寡頭制の鉄則

民主主義において数は力である。よって民主主義では意見を通すためには組織を持たざるを得ない。それらの組織が民主主義の実現を目指すからには、それらは言うまでもなく民主的に運営されなければならない。そして実際にもまた組織が、意識の高い少数者の同志的な結合であった段階であるならば、成員全体の参加の元に意思決定がなされ、代表その他の役職も輪番あるいは抽選で選ばれるなど、組織の民主的な運営がなされていた。

しかし民主主義の実現のためには、それらの組織は成員を増加させて社会における発言権を拡大させねばならず、この成員の増加による規模の拡大は、必然的に指導者を産む。

成員の増大は、組織の果たすべき課題を量的に増大させ質的に複雑化させ、組織運営の分業化と専門化を齎すと共に、組織の統一的な指導者を必要とし、ここに少数の指導者が生じることになる。なぜなら、多数の成員が絶えず直接に意思決定に参加することはもはや不可能であり、たとえ可能だとしても一般成員大衆には決定と指導に必要とされる知識と能力が備わっている保証はないからである。こうして組織の拡大は少数の指導者を一般成員から分化させ、特殊な指導的能力を持つ者が指導者的地位に着くことになるが、更に組織の一層の拡大は指導的任務の複雑化と特殊化を推し進め、指導的地位を一般成員には近づき難いものとして、ここに成員と指導者との間に分離が生じる。この分離と共に決定の権限は一般成員から離れ、名目的にはともかく実質的には、次第に少数の指導者に掌握されることになる。

指導者への権力のこの集中化を更に推進するのは、民主主義における大衆組織は、資本あるいは与党に対し、耐えざる政治的闘争に置かれ、そこに必要とされるのは、状況に応じた指導者の迅速な決定と、これに対する成員の正確な服従による統一行動であり、これのみが組織に民主主義的勝利を齎し、民主主義を実現するとすれば、「少数者の意志への多数者の服従は民主主義の最高の徳」と考えられ、民主主義の原則は民主主義の名のもとに破棄される。

このような組織の指導者は表向きは民主的に大衆に選ばれたことによって大衆の意志の体現者であり、彼に対する反抗は、主権者である大衆への反抗であり、したがって民主主義への反逆とされてしまう。

ミヘルスはこれを「投票箱から飛び出るや、選ばれた者は如何なる反抗も許さない」と表現する。我々の民主主義は矛盾の上に成り立つ、「成り立っているように見える」砂上の楼閣に過ぎないのである。

 

この文章の参考となる本

現代民主主義における政党の社会学

現代民主主義における政党の社会学

 

 てすら注:民主主義の矛盾を鋭くついたミヘルスの名著。図書館などにはおいてあるのでぜひ読んでいただきたい。古典的本で、いろいろ批判もあるのだが、読んでおいて損はない本です。民主主義はどうしてだめなんだ!と思ったらぜひ。

 

2.フーコー/狂気について

19世紀の医学は、病的領域の規範と呼べるものを確立したと考えていた。あらゆる場所、いかなる時にも病気と見なされるべきものを認識したと思っていた。病的と見極めるべきだったのに以前は無知故に異なった地位を与えられていたものを、遡って診断することが可能だと考えていた。

おそらく、今日の医学は正常性の相対性と、病的領域の境界がどれほど変化し得るかをよく認識するようになっている。その変化は、医学自体はもとより、その研究と処置の技術、国の医療体制の度合いによるが、人口の生活基準、価値体型、感受性の境界、死との関係、与えられた労働の形態、つまり経済的、社会的組織全体にもよっている。結局のところ病的とは、ある時代のある社会での医療措置─実際にであれ理論的にであれ─がなされるものなのだ。これは古代ギリシャで癲癇が神聖病と呼ばれ、治療のために神殿に括りつけられたのも含むのである。

17世紀の中頃まで病気─とりわけ狂気─は注目に値するほど寛容だった。狂気という「現象」は、幾つかの排除と拒絶のシステムによって明示されているが、それに関わらず、いわば社会や思考の織り目の中に受け入れられていた。狂人と狂気は社会の周縁に追いやられていたが、それでも社会の内部に広く分布し、かつ動き回っていた。周縁的存在であるが、完全に排除されていたわけでもなく、社会の機能の中に組み込まれていた。ところが17世紀以降というもの、一大断絶が起こり、一連の方式によって、周縁的存在としての狂人を完全に排除された存在に変えた。

この方式と言うのは、監禁、強制労働と言った警察力に基づくシステムである。警察の設置とか監禁方式の確率という現象を通して、その時西洋世界は最も重要な原理的選択の一つを行ったのだ。そういう場合には人間の本性や意識がどうなるかという問題ではないのである。

狂人が完全に社会から排除されたことで、逆に排除されたものの中から文学が発展してきた。フーコーによれば「サドは私の考えではある意味で現代文学の創始者の一人だと思います(…)サドの作品が牢獄内で、しかも内的な必然性に基づいて書かれたという意味で、彼は現代文学の創始者なのです。つまり、ある種の排除のシステムがあり、それがサドという人間全体を襲い、彼の人間を通して、性的なもの全て、性的異常、性的怪物性、要するに我々の文化から排除されているもの一切の上に襲いかかった」(『文学・狂気・社会』)サドと同じ時期のドイツの偉大な詩人ヘルダーリンは狂人だった。

我々が注目に値したいのは、ヘルダーリン、サド、マラルメ、あるいはレーモン・ルーセルにおいて、アルトーにおいて17世紀以来遠ざけられていた狂気の世界、祭りのような狂気の世界が文学の中に突如侵入してきたということなのである。共時的(サンクロニック)、通時的(デイアクロック)として。

つまり狂気は社会から排除されたが、排除されたがゆえに文学や芸術の中で生きる道を見出した。まさに聖/俗の境界をさまよったマレビトのように、我々の中で狂気は、存続している。しかし、その狂気はもはや一般には受容されず、監禁される対象であることは言うまでもない。

(マレビトの参考:)

peoplesstorm.hatenablog.com

この文章の参考となる本

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

 

 てすら注:フーコーの本ならばぜひとも抑えておきたい本。翻訳の問題もあり難解だが、もし狂気なるものを学びたいのならば読んでおくと大変役立ちます。ただし、万人におすすめできるものではない。

 

3.フロイト/抑圧と文化形成、そして「幻想」の誕生

フロイトによれば抑圧による文化の形成とは、性欲動の非性欲化(昇華)を通じて達成される。文明の拡大発展は当然ながら性欲抑圧と非性欲化の促進を要求する。(性的なものが社会から排除されるのは最近のエロ本などの規制を思い浮かべてもらいたい)文明の拡大発展が促進されるほど、行き場を失った死の本能による攻撃性は内攻化し、各人の超自我の内に蓄積される。

超自我の自我への攻撃、すなわち罪悪感はますます加重される。「文化が家族から人類への必然的な過程であるとするならば、罪悪感の増大は(…)文化とは切っても切れない関係にあり、ひょっとすると罪悪感の増大は、個人の人間には耐えきれない程度に達するかもしれない」。

このように文明の発展による人間の不快(罪悪感)の増大で、人は文化の中でより不幸を経験せざるを得ない。昨今の色々な議論を見ているとフロイトの抑圧による文化形成論とその文化により更に抑圧されるという論を思い出す。ポルノの議論しかり、社会に対する様々な議論然り。

フロイトは文化とは幻想(fantasy)だとしている(つまり文化なるものは叶えられない現実を代償的に補い、この形成された幻想の中で充足を得る)のだが、これとオタクの…より具体的に言えば東方の幻想郷という共同幻想を考えると面白い。まさにあれこそが、そして東方という一種広大な文化は、フロイトの言う幻想そのものなのだ。

東方アレンジの某曲に
「叶わない妄想を信じて 人は夢を見る髑髏 会いたいと願うなら 全てを捨てても手を伸ばせ」という歌詞があるけども、物事の本質をとらえた素晴らしい歌詞だ。叶わない妄想、つまり幻想=文化を求める近代人の本質を的確にとらえた素晴らしい曲だといえよう。

 

この文章の参考となる本

幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)

幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)

 

 てすら注:抑圧と文化の関係について述べた本で新訳で読みやすい。投薬治療と認知行動療法が実証された今、精神分析学を大真面目に学べとはいえないが、思想家としてのフロイトの著作は十分読む価値がある。本当に初学者は精神分析学入門 (中公文庫)から読みましょう。無意識や抑圧について大変わかり易く書かれています。

 

4.高田保馬/結合定量の法則

高田保馬の『社会学概論』によれば、人の持つ結合(結びつき)には定量がある。一方の結合が強まれば、他方の結合が弱まる。フロイトのナルシシズム論的に言えばリビドーが自己に向けられれば、他者へのリビドー配分は少なくなる。簡単に命題化すれば、社交関係が広ければ広いほどその交友関係の親密さは浅くなる。

この裏命題として、家族の親密さと組織への親密さがある。家族の家父長への親密さが減れば減るほど、国家への親密さが深まるとされる。これを研究したのがPEスレーターで、ナチの政策は当初国家=ナチ党=ヒトラーへの親密さを深めるために伝統的な親の権威を否定することを行った。

然れどもここにジレンマがある。もし子供に家庭で親の権威を学ばなかったならば、大人になった人々を政治的権威に服従させるのは容易ではない。そこでナチ党は途中から、国家への忠誠を確保するために子供の親への忠誠を許容し、更には奨励さえした。これが国家の家族政策のジレンマである。

かかるジレンマはいろいろな例がある。スレーターはアメリカにおけるピューリタンの教会への服従と親への服従を研究し、同じことを導き出した。保守層が家族制度を維持する方針に走るのも、かかる国家的忠誠を確保するためでもあるのだ。その意味では今の家族の様態は国家にとっては不都合なものだ。

我々の持つ結合(結びつき)のためのエネルギーは限度がある。一万人友達がいても全員と深い親交を築くのは不可能だ。その分浅い結合になる。狭いコミュニティはその分結びつきも強い。これは田舎の「不自由さ」の理由にもなるだろう。そして国家と家父長への忠誠はブラック企業と家族仲が悪い若者の関係など数多くの考察を得ることができるだろう。

 

この文章の参考となる本

社会学概論 (1971年)

社会学概論 (1971年)

 

 てすら注:高田保馬の有名な結合定量の法則の説明である。この命題はわかりやすいが、批判もあることは忘れてはならないが、人間のコミュニケーションとはなんなのか、絆とはなんなのかを考察するのによい文献であろう。私は確認してないですが、新しくまとめた本もでているらしいので、ぜひ。

 

5.モーゲンソー/帝国主義とはなんなのか

「どの国が強国によって抑圧されたがるであろう。あるいは、誰がその財産を不正に略奪されたがるだろう。しかし隣国を抑圧しなかった国が一国とてあろうか。あるいは、他人の財産を略奪しなかった民が世界のどこにあろうか。実際、どこに。」by 『死海写本』


国家の現状維持政策のような「現状(ステータス・クオ)」という概念は、戦争前の現状(status quo ante bellum)という言葉に由来する。この言葉は、一般に平和条約などの条項に見られる外交専門用語であり、領土から敵の軍隊を撤退させ、それを戦争前の主権下に戻すことをいう。

この具体例:ロカルノ条約第一条
「独逸国、白耳義国間及独逸国、仏蘭西国間ノ国境ヲ基礎トスル領土ノ現状(status quo)維持」

政治学で現状という言葉を使う場合、このステータス・クオの概念なんだけど、某政治家が政治学における軍隊=国家の暴力装置で炎上したように、一般的になってる語と専門用語が同じ語で別のことを指す場合、専門論文なら混同されないだろうがツイッターだと混同されて大変な事態になるかもしれない。

帝国主義も乱用されて本来の意味での、政治学的な意味をわからなくしている言葉であり、モーゲンソーが『国際政治』でわざわざ帝国主義の本来の定義を永遠語るくらいなのだ。その本来の定義とは以下のとおりだ。

 1.国力の増大を目指す対外政策を全てが帝国主義ではない。帝国主義とは、現状の打破、すなわち2国ないしそれ以上の国家間の力関係の逆転を目的とする政策である。力関係の本質を損なわず、その調整だけを追求する政策は、なお現状維持政策の一般的な枠組みの中で機能しているのである。

帝国主義と国力の意図的な増大が同じものであるという見解は主に2つの異なるグループに取られている。反米派のように、ある特定の国家とその政策に主義の上から反対する人は、自らが抱いている恐怖や嫌悪の対象の存在そのものを、世界に対する脅威と見なすのである。それゆえ、このように恐れられている国家が力を増大し始めるたびに、その国に恐れを感じている人びとは、この力の増大が世界征服への踏み台になるに違いなく、それは帝国主義政策の現れに他ならない、というわけである。他方、どんな積極的な対外政策であれ、これをいずれ消滅させなければならぬと悪だと、見なす人びとは、力の増大を求める対外政策を非難するだろう。19世紀の政治哲学の継承者達はそのような人びとであった。彼らは、このような対外政策と、彼らが悪の典型とみなした帝国主義とを同一視したのである。

2.既に存在する帝国の保持を目的とした対外政策は、必ずしも帝国主義ではない。ところが、イギリス、中国、あるいはアメリカなどの国家が、ある地域でその優越的立場を維持するために行動すれば、それらは何もかも帝国主義的だと一般に見られがちである。その結果、帝国主義は帝国が構築されるその動的過程よりも、むしろ既に存在する帝国の維持、防衛、安定と同一視されるようになってしまった。しかし「帝国主義」という言葉は本質的に静的で、保守的な性格の国際政策に適用することは、完全に誤っているのである。なぜならこれまで述べたように、国際政治学において、帝国主義とは現状維持政策と対照をなし、したがってそこに動的な意味が含まれているからである。いわゆる「イギリス帝国主義」の歴史は、この点で教訓的だと言えるだろう。イギリス帝国主義は本質的には帝国主義ではなかった。

ということでみんなが言う帝国主義者め!なども真面目に語るとこうなります。ちゃんと理解した上で使おう。

 

この文章の参考となる本

モーゲンソー 国際政治(上)――権力と平和 (岩波文庫)

モーゲンソー 国際政治(上)――権力と平和 (岩波文庫)

 

 てすら注:「国際政治学」についてわかりやすく書かれたモーゲンソーの名著。内容も難しくないので高校生でも読めると思います。あれこれ難しい論文を読む前にまずはこの本を読んでみてはいかがでしょうか。

 

6.J.ピアジェ/道徳感情の発達、そして日本社会にはびこる「体育会系の弊害」

社会学者のJ・ピアジェは、子供の集団の研究から子供はまず義務と他律の「拘束の道徳(morale de la contrainte)」から次第に善と自律の「共同の道徳(morale de la cooprration)」へと進化していくことを発見した。

「拘束の道徳」の段階にある子どもは、規則を永続的で神聖なもの、それゆえ修正不可能なものとみなす。しかし「共同の道徳」段階にある子どもは相互的に尊敬し、相互の要求から他者を尊重する規則へと変更することが可能である。

日本のブラック企業、または政治が規則を永続的で神聖なものとみなし、労働者や国民のための改革を打ち出せない・打ち出さないのは夏目漱石が「日本の開化」でも言っているように日本の精神的発展段階が未だ「拘束の道徳」で止まっているからであり、「共同の道徳」段階に達しなければならない。

また、ピアジェ「道徳が社会関係に源泉を持つのなら、『一方的尊重』を特徴とするような上下関係では、善と自律を経験させることはできない」とも言っている。要するに日本の体育会系やあらゆる企業の体質(上がただ威張るだけで部下を省みない)である。日本の今の体質では相互理解や他者尊重の精神なんて身につくはずがないのだ。体育会系を優先する日本の企業をもしピアジェが見たら…苦笑するだろう。

この文章の参考となる本

J.ピアジェ著『児童道徳判断の発達』(はてなブログからの検索だとAmazonで見つかりませんでした…)

てすら注:この本は社会学というより教育心理学などに近いのだが、読む価値はある。ただし優先ではなく、気が向いたら、暇なら、程度でいいかと。

 

7.オリバー・サックス/『レナードの朝』より「病気で苦しむということ」

「私たちは誰もが心の中で、自分はかつて完全な存在だったと感じている。のんびりしてなにかに煩わされることもなく、ゆっくりと落ち着いていて、そんな私たちの存在そのものが完璧に調和を保っていた、と。

ところが、この最高で無垢な状態を失い、現在の病気や苦しみに陥ってしまった。かつては無限に美しく大切なものを持っていたのに、それを失ったのである。私たちは、失ったものを探して人生を送っている。そしてある日、おそらく突然に、それを見つけるのだ。これこそが奇跡であり、至福の時なのだ。

災難や病気、苦痛などにひどく苦しめられている人々こそ、こうした考えを激しく抱いているであろうことは想像にかたくない。そうした人々は自分が失ったり無駄にしたり何かについて考え続け、手遅れになる前にそれを取り戻そうと必死になっているからである。

一縷の望みを抱えて司祭や医師をおとずれるひと、あるいは患者は、悪化の阻止、救済、再起のためにはあらゆるものを信じる用意ができている。必死で救いを求めている彼らは他人のいうことを信じやすく、いかさま師や狂信者からも被害を受けやすいのである。

失われたものを見つけなければならないという思いは、基本的には抽象的である。もしぼんやりとした何かを探している患者に、望んでいる物や探している物は具体的になんであるのか尋ねても、返ってくるのは項目を並べたリストではなく、単に「幸福」「失った健康」「以前の健康状態」「現実感」「本当に生きていることの実感」などといった答えだけだ。具体的な何かが欲しいというのではなく、変質してしまったあらゆる物事が回復し、無傷のまま元の状態に戻ることを求めているのである。そして、痛々しいまでの危機感を持ってあちらこちらを探しているちょうどその時に、突然グロテスクな間違いに導かれてしまう。

それは(ダンの言葉によれば)「薬局」を「象徴的な神」と間違えることかもしれない。そして、それは薬剤師や医師が陥りやすい間違いでもあるのだ。この時点で、無邪気な患者、そしておそらく無邪気ではない薬剤師と医師は、手に手を取って現実から旅立つ。

それと同時に、はっきりとした形をもたない真実は突然ねじ曲がり、空想じみた無意識の腐敗と欺瞞に取って代わられる。そして真実という場所を占める架空の概念は、錯覚された生気論か物質論で語られ、「健康」「満足」「幸福」などの概念は、一定の「要素」や「基本物質」─成分、体液、薬などの計量可能な売り買いされるもの─にまで矮小化される。このような見地に立てば、健康とは機械的に定量したり引き上げたりできるものと同じだということになる。だが、抽象概念を論ずる場合には本来そのような矮小化は行われず、存在の構造や目的などが検討されるのみである。

詐欺まがいの矮小化を行うのは錬金術師や魔術師、そして現代のそうした人々、あるいはどんな代償を払ってでも回復したいと願う患者たちなのだ」by『レナードの朝

 

この文章の参考となる本

レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 てすら注:映画化までされた不朽の医学書にして名ドキュメンタリー。眠り病、脳炎によってパーキンソン病を患った患者にL-DOPAを投与した際の記録である。堅苦しくなく、ぜひ楽な気持ちで読んでいただきたい。人間が生きるということ、苦しむということへの答えが記されている。

 

8.シェーラー/「まなざし」と「羞恥」の関係

シェーラーは『羞恥と羞恥心』という論文を書いて、まなざしと羞恥の関係性を現象学的に追求した。シェーラーによれば、羞恥は、動物にもなければ、神にもない。人間にのみ特有の感情である。人間は、精神と身体、霊と肉、永遠と時間、本質と実存などの両界にまたがって、橋渡しをしている中間者である。

羞恥はそんな人間だけに固有の感情なのである。すなわち、羞恥とは精神的・人格的な存在としての人間が、情動的(リビドー的)・動物的な存在としての自分自身を振り返り、自己の内なる両者の不均衡と不調和に気づいた時に、必然的に生じぜざるをえない感情である。

人間は身体(肉体)に縛られているからこそ、恥じざるをえない。と同時に、精神的な存在であるからこそ、「恥じることができる」のである。羞恥が優れて人間的な有り様を示す感情なのである…加えてシェーラーは羞恥の日常的、具体的な発生を述べている。

羞恥が日常で起こる条件の一つは自己への振り返り(Zurückwenden auf ein Selbst)、要は自己意識にある。つまり自分自身への振り返りである。例えば火事でパニックになった女性が裸で外に飛び出た瞬間に羞恥はない。しかし落ち着いて自分の服装を見た時初めて羞恥が生じる。

シェーラーによれば、我々の自己意識は、常に普遍者との関連において与えられることを必要としている。自分が単なる個別者でも普遍者でも羞恥は存在しない。普遍者であるのに個別化され、個別者であるのに普遍化されるとき羞恥は発生するのである。

具体例を上げよう。世間では人に裸を見られるのは恥ずかしい。しかし患者は医者の前で裸に成ることには強い抵抗を感じないだろう。これは両者が「○○さん」という個別者ではなく「医者」「患者」という「普遍者」としてカテゴライズされるからである。

一方恋人同士で性行為を行う際も両者は全裸に成るだろう。ここでも羞恥を招きにくい。これは両者が「○○さん」「○○くん」と両者自身を個別者として捉えているからである。

簡単にいえば、人は「大勢の一人」でいたいのに「ある特定の人」としてクローズアップされた途端恥ずかしくなるといえるし、「ある特定の人」でいたいのに「大勢の一人」として捉えられても恥ずかしいのである。これらの経験は大学の大教室で教授に運悪く当てられてしまった時のあの恥ずかしさを味わったことがある者ならば理解できるだろう。

これらがシェーラーの論であるが、サルトルも『存在と無』でまなざしと羞恥の関係を指摘している。作田啓一によれば「日本人が羞恥心を感じやすい」というのは普遍者(社会)と個別者(個人)の分離が中途半端な日本の構造にあるという。

 この文章の参考となる本

シェーラー著作集 15 羞恥と羞恥心

シェーラー著作集 15 羞恥と羞恥心

 

 てすら注:シェーラーの著作は少々わかりにくいものが多いが、優れた論文を数多く残している。これもそのうちの一つだが、初学者の方は現代哲学の主潮流 1 ブレンターノ・フッサール・シェーラー・ハイデガー・ヤスパース (りぶらりあ選書)あたりから読むと良いと思います。こういうものを学ぶときに大事なのは、わからない箇所は飛ばすことだ。最後まで読むと最初の分からなかった部分がわかる、というようなことが数多くあるので…

 

この記事の全体のまとめ

3月末~4月末の長文ツイートをまとめました。自分でツイートしたのにツイートしたことを忘れていたものもあってびっくり。ツイートを元に書いているので色々おかしい部分もあるでしょうが勘弁して下さい…あとジャンルがばらばらでなんかもう何が主体の記事なのかよくわからないですね…なにか意見ありましたらツイッターの方(@teslamk2t)までお願いします。

 

大変関係ない文:この記事は1万文字超えなんですが、ここまで書くと、安ノートが、PentiumNが火を噴く。MacBook Airがほしい…(無職には買えない)