VKsturm’s blog

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オカルティズムと「思考の節約」─現代社会におけるステレオタイプの活用

「聞け、驕り高ぶれるアジアとヨーロッパの民よ、
 大いなるかたの蜜の声響かせる口を通して、
 われわれのことから始めて、わたしが預言せんとするかぎりの全ての真実を。
 わたしは虚偽を託宣するフォイボスではない。その者を、愚かな人間どもは神と云い、預言者と詐称したのだ。」


新約聖書の外典『シビュラの託宣』第四巻の有名な出だしであるが、
この外典は一時期、311の予言ではないかと話題になった巻である。

それはこの記述だ。

地震のために激しく揺れ、諸々の都市がたちまちに倒れる時に。
ロードス人たちにも、最後の、しかし最大の悪がやってくるだろう。
(中略)
おお、リュキアの美しいミュラよ、揺れ動く大地は決しておまえを立たせておきはしない。
まっさかさまに大地に倒れ、寄留者のように、他の地に逃れたいと願うだろう。
それはパタラの不敬虔の上に、ある日、雷霆と地震とともに、海の黒い水が騒乱をまき散らす時である。」

これは直接的には聖書の中の話であるが、いわゆるオカルト信奉者が言うように、聖書は一種抽象的な世界の話であって、アジアに適用することも間違ってはいないかもしれない。

実際、311とこの記述に「類似」している点はある。そしてオカルト信奉者はかかる論を摘出し、文脈をはぎ取ってすぐさま論拠として提示する。
(もちろん、選択的思考と自己欺瞞(self-deception)で脚色されたこれらが論拠とは言えないのは明らかなのだが…。)

しかしここで注目したいのはオカルト野郎はクレイジーだ、という結論ではない。
彼らがオカルトをステレオタイプへの典型的防御手段として使用している点である。

ステレオタイプはWリップマンの指摘以降、悪い風に取られがちだが、
彼は同時に「ステレオタイプは、理解に役立つ」とも述べている。

教養も詰んでこずに、また知識を「得る時間」がないような私のような人間にとって現代社会は甚だ複雑怪奇である。

なぜ飛行機が空を飛ぶのか? これは航空力学を学べば容易に説明できる。

しかしこれを知らないものは「クマバチがなぜ飛ぶかは明らかにされていない。よって飛行機の飛行原理も明らかではない。だから危ない」などという古い論を取り出し、飛行機におびえるのである。

これは未開人が銃を持った西洋人(コンキスタドール)を見て、あいつらは魔術師だ!火を操っている!
などといって恐怖にやられ、国を滅ぼされたのと同じである。

そしてかの311ではかかる未開人的思想とステレオタイプによって防護されている人間が「<自称>情報強者」の中にもい大勢いると実証されてしまった。


先の例を再び取り上げると、彼らは飛行機が飛ぶのは科学で実証できない魔術的なものだと決めつけ、そこで思考停止を起こす。彼らにとって航空力学を学ぶ時間はない。そして私もそうなのだが、学ぶだけの知能もない。

彼らにとって「飛行機が飛ぶ」という現実の出来事を理解する「手助け」となるのがステレオタイプであり、
彼らは一種のステレオタイプ─飛ぶ理由がわかっていないという─を用いて、物事を理解したのである。

このステレオタイプによる理解は、脳の労力的観点から言うとひどく効率がよい。
何か嫌なことがあったら「ユダヤの陰謀」と決めつけたり、何か不思議なことが起きると「魔術だ」などと決めつける。つまり、ステレオタイプによる理解は思考の節約と言っていい現象なのである。

もしここでステレオタイプなき学者が同じ現象を「理解」しようとすればデータの収集、実証など多くの過程を必要とする。
先の飛行機でいえば、飛行機が飛ぶのはまだ解明されていない!と決めつけるのは一瞬だが、「この機体が飛ぶのはエンジンの出力、翼の断面系から計算して求められる揚力、また翼の長さ、そして翼重比を求めだして・・・」などとステレオタイプなしに理解するのは実に時間がかかるし、脳の労力も甚だ大きいものだ。つまり、ひどく労力を使うのだ。

この現象はそのまま311以降広まったデマにも当てはめることができる。地盤などのデータを収集し、計算するのではなしに、「地震兵器の仕業だ!」とステレオタイプで決めつけ、脳を「疲れさせずに」物事を理解した彼ら。
新約聖書の外典に書かれているから311が起きるのは必然だったと決めつける彼ら。

彼らはまさにステレオタイプの奴隷である。しかし、一方で彼らは偉い学者たちがするように脳を「疲れさせることなしに」、思考の節約によって物事を理解できる、ある意味賢い人間だということもできる。

これらの現象はオカルト以外にも数多く現れている。

例えば福島の放射線量に対するステレオタイプ、外国に対するステレオタイプ等々、数を上げれば限りないのだ。

自ら考えることなしに、ステレオタイプで物事を理解しようとする彼らは実は「時代に適した」人間なのかもしれない。

なぜならば、複雑化した現代社会で全てを把握するのは不可能だ。思考の節約により、なるべく頭を働かせずに理解することで我々はなんとか毎日を送っている。もし、君があらゆる現象を理解して行動しようと思えば脳科学から理論物理学まで、ありとあらゆる学問が必要になるのは目に見えている。それを必要としなくて済むのは、我々の見る世界がステレオタイプで塗り固められており、そして思考の節約により考えなくて済むようになっているからだ。もし、君がステレオタイプなしに生きていると思うのならば、それは誤りである。人は必ずステレオタイプの中で生きているのだ。例えば、あの国は◯◯だ、という際に思い浮かぶ「国」はステレオタイプの中の国であることが多い。台湾であれば、台湾という国の実際を知らずに人は「親日」というステレオタイプで見る。もしステレオタイプなしに台湾を見れば、君は台湾がどのような国かに対する処理する情報の多さに苦戦するだろう。このように我々は常にステレオタイプとともにあるのだ。

我々は─それが偉い学者であっても─常に思考の節約により思考をしないように、脳を使わないように生活するようにできている。それがあるからこそ、現代社会で生きていけるのだが、一方でそれは弊害にもなる。少なくとも「我々はステレオタイプの中に生きている」という自覚だけは忘れないほうがいいだろう。