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ガルパンおじさんとマレビト 関係と考察

はじめに

ガールズアンドパンツァー(以下ガルパン)劇場版が非常に好調である。私も何回も見に行ったのだが非常に優れた娯楽作であると言える。ガルパンはいいぞ。

 ガルパンといえばガルパンおじさんなる存在がある。彼らは(あるいは彼女らは)「ガルパンおじさん」という語が使われる時期によって具体的用法は異なるものの、2016年現在では善良なガルパン愛好家を指す名称となっている。

 かかるガルパンおじさん達はガルパンの聖地である大洗町に訪れ、そこで受け入れられている。私はここに民族学的特徴を見出した。すなわちガルパンおじさんはマレビトであるのだ。以下具体的論考をしていきたい。

 

マレビトとは何か

マレビトとは簡単にいえば異界から訪れてくる来訪神・客人神である。中世日本の村落社会で生きる者にとって自己の村落共同体以外は「異界」であり、これら異界の者を丁重にもてなした後送り返していた。

先にマレビトは「神」と述べたが実際に神がいたわけがあるまい。実質的にマレビトとされた者達は村落共同体から排除された者たちであった。具体的には

1.村八分的な刑罰により、または共同体の宗教規範に反したため村落共同体から排除された者

2.精神障害者(物狂い)

3.疾病(特にらい病)や身体障害(不具)がある者

の三種類から成り立っていたと柳田国男折口信夫は述べている。1や2はともかく、3のらい病患者や身体障害者がなぜ村落共同体から排除されたかと言えば、中世日本で広がった仏教的宿業観によって、らい病患者や盲目等の身体障害者は前世の罪によりそのような「穢れ」を負ったとされ、それ故に禁忌の対象として厳しく排除されたからである。このように村落共同体を追われた者は当然の結末として、各地を放浪しながら物乞いとなって命をつなぐしかなかった。これらの物乞いの様子は鎌倉時代初期の仏教説話である『発心集』でも描かれている。

 らい病患者や不具の者たちは一つには生きるためという実利的な理由として、物乞いの旅をしていたわけであるがもう一つに理由はあった。これらの前世の罪を背負った者が、各地を漂泊、もっと言えば霊地巡礼をすることで前世の罪が贖罪されると考えられていた。(折口信夫『小栗外伝』)このように贖罪の旅を続ける彼らの乞食行為は一種宗教的意味も含んでいき、村人が乞食に施しを与えるのは村人自身の贖罪行為にもなると考えられていた。このような構造は中世ロシアの遍歴巡礼(ペレホージェ・カリーキ)や聖愚者(ユロージヴィ)とも重なってくる。ロシアの彼らも聖書から題材をとった巡礼歌を歌い、乞食同然の身なりで喜捨を求めながら各地を遍歴した。ロシアにおいてもこのような旅の乞食は宗教的意味を多分に含んでいたのだ。もちろん彼らに施しを与えれば自らの贖罪行為になると考えられていたのも同一で、結果として無一文の「乞食」が物乞いで生きていけたのは─もちろん餓死することや野垂れ死ぬことは多々あったが─このような構造があったからである。

これらの漂泊の旅を続ける乞食は偶然立ち寄った村落において、神秘感を漂わせる異界からやってくる「マレビト」として迎えられたのである。これらマレビトは村人たちに手厚く歓迎されたが、村人たちの間には一種のアンビバレントな感情が存在した。

赤坂憲雄はこのように述べている

秩序と混沌という二元的世界観を生きる定住民にとって、<異人>は漂泊性を濃厚に帯びているがゆえに、秩序と混沌に相またがる両義的存在として立ちあらわれてくる。また、混沌自体が聖なる境域として創造と破壊という両義性を孕んだ象徴空間であることから、<異人>を迎える定住農耕民は怖れと敬いという両義的な心態に引き裂かれざるを得ない。そうした怖れと敬いという両義的感情を惹き起こすものは、むろん<聖なるもの>である。定住民の<異人>("まれびと")に向ける錯綜した心態は、それ自体<異人>の<聖なるもの>としての性格を暗示していると思われる。(赤坂憲雄『境界の誕生』)

 マレビトは俗世界(村落共同体)に属さないがために、穢れを帯びた存在として畏怖される。一方俗世界に属さぬがために聖別された異界の者として扱われた。このような構造におけるマレビトと村人の関係は両義的でもありアンビバレントであり、現在の視点から見ると理解しづらい。然れどもロシアの例を挙げたようにこれら異界の者を畏怖し、また聖なる者として歓迎する構造が世界中にあったというのは忘れてはならない。社会学デュルケームの『宗教生活の原初形態』の言葉を引用すれば「浄から不浄が作られ、不浄から浄が作られる」のである。

このようなマレビトは村から厚い歓迎を─それこそまさしく神のように─受けたのであるが、一方でマレビトも村の方へ「与える」ものがあった。各地を遍歴する彼らは村落共同体から他の村落共同体へ「知識」や「芸能」を伝えるものであった。原初的形態における交易の発端とみなしていいだろう。加えて社会学ジンメルが述べているよう、に経済史の始まりとしてこれら旅の者が共同体間の原始的な物質的交易を担っていたのも忘れることは出来ない。

 

ガルパンおじさんとマレビト

さて、今までマレビトなる概念を説明してきたわけであるが、では一体どこにガルパンおじさんと重なる要素があるのか。もちろん私はマレビトが古来日本のように「乞食」や「障害者」だと言いたいわけではないのをご注意願いたい。ガルパンおじさんの構造がマレビトと重なっている…こう言いたいだけであり他意はない。

まずガルパンおじさんなる概念が当初、否定的意味合いを多分に持っていたのを忘れることは出来ない。数年前のツイッターを覚えている者なら分かる通り、数年前は「善なるガルパンファン」はガルパニストと呼ばれ、または自称し、「悪なるガルパンファン」は自虐的にガルパンおじさんと名乗っていた。

この構造は長らく続いていくが2015年11月劇場版ガルパン公開後からガルパンおじさんという語の持つ負の意味は段々と払拭されていき、冒頭で説明した通り、善良なファンとしてガルパンおじさんという語が使われるようになってきている。

然れども現在でもガルパンおじさん、つまりガルパンを愛する者に善のイメージのみがあるわけではない。必然的に「オタク」というイメージが重なってくる。社会がオタクについてどのように対応し、オタクが苦しめられてきたかはあらためてここで語る必要がないだろう。つまりガルパンおじさんにはガルパニストという言葉から引き継いだ善良なイメージ、そしてオタクという言葉から引き継いだ負なるイメージ、この2つのイメージを両義的に有しているのである。そうまさしくマレビトが穢れを持ち不浄な存在ながら、同時に聖別された浄なる存在として見られていたのと同じ構造なのだ。

更に、近年急速にその用法が広まりかつてのような狂信的迫害を受けなくなったとはいえオタクという語、そして概念には多くの負の意味が癒着している。一般社会から外れた異常者、社会不適合者というイメージ。宮崎勤の事件でのマスコミの報道から見て取れるように凶暴で不浄なる存在というイメージ…。然れども日本政府はクールジャパン戦略と銘打ってこのようなオタク文化の海外輸出を目論んだ。このクールジャパン戦略に内包されるイメージはもちろん「オタク=善なるもの」の概念だ。つまりオタクという語自体もある種マレビトの構造を持っている。

約言すると、このように善と悪、浄と不浄の両義的意味を持つガルパンおじさんはまさしくマレビトと同一の存在だと言える。マレビトは自分の村落共同体から追い出され、別の村落共同体へ遍歴し、そこで<異人>として歓迎された。一方我々ガルパンおじさんも自分の共同体からはいい顔をされてはいないだろう。例えばガルパン痛車を作っても近所の人は白い目で見てくるかもしれない。だがそんなガルパンおじさんたちを受け入れてくれる別の共同体が存在する。そう、ガルパンの聖地である大洗町である。

大洗町ガルパンおじさんに対する好待遇は有名だ。我々ガルパンおじさんは自らの共同体から排除されるが、大洗町という共同体からは歓迎される。そう、まさしくマレビトが自分の村を追い出され、他の村を訪れ歓迎されるようにである。ガルパンおじさんは大洗町から来客神の如き歓迎を受ける。ガルパンおじさんはマレビトが交易を担ったように非常に近代的な対価、すなわち金銭を与える…。

加えてガルパンおじさんは、マレビトが物質的交換のみを担ったわけでないように精神的交換も担っている。日経新聞社の『おかわり おもてなしは戦車より強し――「ガルパン」で覚醒、大洗の魅力』という記事にはこんな話が乗っている。

 

そして、お店の人はまだ「ガルパン」をよく知らないケースが多い。店にパネルを置くことで興味を持ってもらい、少なくともそこに描かれたキャラクターについて、ファンと語り合えるぐらいになるのでは、という期待もありました。この作戦は大成功で、多くの店主がガルパンファンたちとコミュニケーションを取るようになります。長時間話し込んだり、ファン同士の交流の場となる店も出てきました。

マレビトが共同体から共同体へ知識を伝達したように、ガルパンおじさんも自らのオタク的知識を大洗町の町民たちへ伝達したのだ。ガルパンおじさんと大洗町の関係をただ単に物質的交換、金銭的交換だけと論じるのは誤っている。彼らはまさしくマレビトのように精神的交換も担っているのだ。

さて、このようなガルパンおじさんが大洗町に「聖地巡礼」を始めたきっかけとして挙げれているのが2012年のあんこう祭りだ。先の日経の記事にこう書かれている。

2012年10月8日、「ガールズ&パンツァー」放送開始。そのおよそ1カ月後に大洗で行われた「あんこう祭り」において、ガルパンで大洗を盛り上げる取り組みが一気にスタートします。出演声優も大洗を訪れて記者会見やイベントに臨み、大勢の人で賑わいました。

つまりあんこう祭りの影響でガルパンおじさんと大洗町民の「交易」が始まったわけであるが、このように「祭り」によって交易が始まるという現象が岡正雄の『異人その他』で述べられている。すなわち、このような交易・交換は神前で行われ、またしばしば祭日と同じである。そしてこの交易は相互義務において拘束され、経済的意味で恣意的に行われたのではない。

2012年のあんこう祭りではガルパンに関する催し物が数多く行われた。「聖地巡礼」という言葉があるように、言うまでもなく我々ガルパンおじさんにとってガルパンは神に等しい存在である。つまりガルパンの要素を多分に持っていたあんこう祭りは必然的に神と同等の存在であった。祭日とはその名の通り祭りの行われる日のことだが、この意味でもあんこう祭りは岡の言う案件を満たしている。

更にガルパンおじさん内部でも大洗町でのマナー論が盛んになっている。キャラクターのパネルに抱きつくな、店で騒ぐな、写真を撮るときは一声かけなさい等々…。これらのマナー論は特にツイッターでよく見ることができるが、この意味でも我々ガルパンおじさんと大洗町の間は相互義務的に拘束されており、どちらも「マナー良く」過ごすことで今の関係が成立した。もしガルパンおじさんがマナー違反を繰り返せば今の良好な関係は崩れてしまうだろう。筒井康隆の『農協月に行く』に代表されるように、高度経済成長期~バブル期の日本人旅行者に多かった「金さえ払えば何しても勝手」という資本主義的な身勝手な視点はここでは用をなしていないのだ。両者の相互義務的関係において担保されているのである。

ここまでガルパンおじさんと大洗町民の良好な関係を述べてきたが、当初大洗町の側には戸惑いもあったのではないか。例えば2chの長寿スレ『【キモオタ】オタクが嫌い気持ち悪い【立入禁止】』にはアニメで町おこしをした結果、地域住民が訪れたオタクをキモい・死ね等批判する書き込みが見られる。このように程度はどうであれ、一般住民にとってオタクが大挙して訪れるというのは一種の恐怖を伴っている。マレビトが歓迎されながらも畏怖されたように、我々ガルパンおじさんも来客神として歓迎されながらも恐怖される存在なのかもしれない。だがこれはあくまでマレビトという存在からの考察で、大洗町民がガルパンおじさん達を面と向かって批判する書き込みやツイートは(私が検索した範囲では)見受けられなかった。知っている方がいたら連絡願いたい。

 

終わりに

ガルパンおじさんは現在のマレビトである。彼ら・彼女らは自分の共同体から離れ、大洗町に行くことで畏怖と共に敬愛を受ける。マレビトは伝説では村民に恵みを齎すという。もちろんその恵みというのは物質的交換・精神的交換を表していたのが本当のところなのだが、大洗町にもガルパンおじさんというマレビトを歓待することで経済効果を齎した。これは伝説が現実になったと言えるだろう。伝説が現実へ…ガルパンおじさんはまさしく21世紀に蘇ったマレビト伝説の体現者なのだ。私もガルパンおじさんとして…オタクとして…すなわちマレビトとして大洗町聖地巡礼したいと思っている。

最後になるが、ガルパン劇場版は本当に日本の産んだ娯楽作の最高峰なので見よう!ガルパンはいいぞ!

 

参考文献(順不同)

戸井田道三『能 神と乞食の関係』

デュルケーム『宗教生活の原初形態』

折口信夫『小栗外伝』

ジンメル社会学の根本的問題─個人と社会』

赤坂憲雄『境界の発生』

スラヴィク『日本文化の古層』