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装甲(鎧)の歴史─紀元前から近代まで

ブログを放置するものいけないし、でも書く気力がない。ということで大学の生の頃にやっていたブログの一連の記事からの転載です。いろいろと直したいところはあるのですが、若い頃特有の熱意が感じられて青臭く、それが懐かしいということで最小限の訂正や編集だけになっています。ところどころ間違っているとこや当時の下手くそな絵(画力の限界から必ずしも正確とは限らない)もありますが、ご容赦ください。

 

 

1.はじめに

人類の戦争の歴史を振り返ると、古くはフリント(燧石)製の武器に行き当たる。

実際、ベルギーにある世界遺産「スピエンヌの新石器時代の火打石採掘地」では紀元前4000年から紀元前700~800年に至るまで多くのフリントが採掘されていたことが確認されている。

このように、人類は往々にして加工しやすいフリントを使った石器を古代から活用していたが、これはもちろん武器としても転用された。頭部を人為的にかち割られた人骨が発掘されているのだ。

武器の歴史はこのように「遥かに」昔から存在する。というよりも、極論を言えばチンパンジーがグループごとの抗争に用いる「投石」などまで遡れる。しかし「装甲」(「鎧」)の歴史は武器のそれに比べれば短いし、チンパンジーが「装甲」を生み出したという話も(現時点では)聞かない。「装甲」は人類だけのものなのだ。

 

ここではその「装甲」の歴史をかいつまんで説明していきたいと思う。

 

2.紀元前の鎧

装甲の歴史を紐解いてみると、それはスムアブムらが生存していた頃─要は紀元前19~20世紀─に行き当たる。スムアブムは古バビロニア王国の初代王であるが、古バビロニア王国が存在したメソポタミア地方ではこの時期には既に胸部に円盤状の板を装備していたことが明らかになっている。

人間にとって胸部は頭部につぐ「弱点」である。胸部に収められた一部の内臓が失われれる、または損傷するだけで人間は容易に死に至るからだ。よって、古バビロニアの人間が胸部をなんとかして守ろうとしたのは至極当然の結果だったと推測できる。

このような胸だけをとりあえず守るたぐいの装甲(ブレス・プレート)は古代ローマ時代になっても一部の「蛮族」に使用され続けた。理由は至極簡単で、「安くて」「簡単に作れる」からだ。

例えば普遍的な「金属一枚板のブレスプレート」は下記の図のとおりだ。

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ブレスアーマー

ブレスプレートとはこのように「体にフィットする」とか「人間工学」とかそういうような要素は一切存在せず、とりあえず平均的成人男性の胸を覆えればそれでよし!というようなデザインだった。(一部のブレスプレートは高価な装飾と体への負担を軽減させる腰当てなどが付属しているがこれは例外的である)

他に特徴としては、通常ブレスプレートはエンブレムが掘られていた。これは兵士間の結束を高め士気を上げるためであった。加えて、「聖なる紋章」だとか宗教的模様を入れることでお守り的な効果を期待していたと考えられている。日本でいえば千人針みたいなものである。何時の時代も人は変わらない。

かかるブレスプレートは絵にも描いたとおり、ただの金属板なので重く、また塗料も粘土系なので地味である。共和制ローマとサムニウム人との戦争(サムニウム戦争)ではサムニウム人はこのブレスプレートを使用したとされる。ブレスプレートの真骨頂はこのように(ローマ人から見た)「蛮族」でもすぐに生産でき、「とりあえず」の防御能力を与えられるところにあったのだ。

古代ギリシャになるとファランクス戦術が一般的となり、兜、脚甲、胸甲、それに大きな円盾である「ホプロン」を着込んだ非情に有名な「重装歩兵」が一般的となるが、それまで人類の装甲といえば「ブレスプレート」が普通だった事実は忘れてはならない。それに重装歩兵の装甲は豊かな「市民」のみが装備を揃えられる高価なもので、それ以外はブレスプレートが使われていた。

いずにせよ、このような簡素な「金属一枚板」から、「人類最高の鎧」と称された16世紀の「フィールドアーマー」まで幾つもの変遷をたどりながら装甲は進化していく。之以降の歴史、要は16世紀以降のいわゆる「Cuiassir Armor」などは装甲が武器に敗北していく歴史であることはご存知のとおりである。

 

3.古代ギリシアの鎧

さて前項目では古代ギリシア以前の装甲を紹介したのであるが、今回はついに古代ギリシアである。

とはいえ、「古代ギリシア」という語が指す範囲は広い。一般的に「古代ギリシア=重装歩兵」のイメージが強いだろうが、その前段階として「戦車」があった。

戦車は馬が牽引する「戦闘馬車」とでも言うべきもので、多くはポールウェポン(槍などの長物武器)を装備した戦車兵や弩砲(バリスタやレポリス)を載せていた。戦車は馬に牽引され機動するので、鎧の重さが考慮されずに戦車兵の全身を覆うような重装の鎧が主流であった。これはヒッタイトが主に活用した。

時代が下り、馬への騎乗術が発達すると「騎兵」が誕生し機動力に劣り使用条件が厳しい戦車を徐々に駆逐していくことになる。実は重装歩兵や騎兵よりも戦車のほうが誕生は早いのである。

戦車や騎兵の後に誕生した重装歩兵は密集陣形を組み正面への衝撃力と防御能力のみを追求した部隊であった。よく文献で見るように彼らは大きな円盾を持ち、ブレスプレートの時代と違い、足や腕まで装甲に包んでいた。彼らは非情に精強な歩兵であり、マラトンの戦いのようにペルシャ軍を何度も打ち破ったが、弱点も多かった。

まず正面への攻撃力と防御力を追求しすぎたために、側面を完全に無視していた。なので、側面への騎兵等の攻撃で部隊ごと壊滅することも多々あった。実際、レカイオンの戦いでは少数のスパルタ軍の決死の側面攻撃により優勢なアルゴス軍の部隊は壊滅した。

加えて機動力が皆無だった。レウクトラの戦いにおいてエパメイノンダスの斜線陣戦術に遭遇したスパルタ軍は、迂回機動を取ろうとしたがその機動力不足から機動に失敗したのである。

ギリシアが徐々に衰退していく頃になるともはやファランクス戦術を採用する重装歩兵だけでは戦闘を行えないようになっていた。側面は常に敵の軽騎兵に脅かされるようになり、重装歩兵を守るために前面に軽装歩兵、側面に軽騎兵、といったような構成が常識となった。

この軽装歩兵が身に着けていたのがLinen Cuirass(リネン・キュラッサ)と呼ばれた「リネン(麻)の鎧」である(下図参照)

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リネンキュラッサ

この鎧は何より軽いのが特徴だ。リネンを厚く織った集層リネンにより構成されており、防御能力を犠牲に素早い移動を可能にしたのである。このような集層リネンであっても軽装歩兵が遭遇する遠距離兵器(弓矢等)には必要最低限の防御性能があった。軽装歩兵は大抵傭兵であり、敵の軽装歩兵対策を主に担うが(今の対狙撃兵任務につく狙撃兵のように)、彼らは重装歩兵同士の近接戦闘による斬り合いが始まると後方へ撤退(または潰走、逃亡とも言う)するのが常であった。

要はこの鎧にそもそもサリッサ(マケドニア式長槍)などの強力な刺突を防ぎ、ウォーハンマーの劇的な打撃を弾く性能は求められていないのである。それらと遭遇するのは彼らの後ろに控える精鋭部隊である重装歩兵であった。

しかし、皮肉なことに機動力のみを追求したこのリネン・キュラッサは重装歩兵が滅びた後も活用されていくことになる。それは金属製鎧がどうしても抱える「重さ」という欠点を割り切ることで解消した発想の勝利である。リネン・キュラッサが最後に文献に登場するのは古代ローマギリシャ世界を征服しようとしたときに、祖国を守るために絶望的な戦いに投じた「最後のギリシア兵」たちの装備品としてである。それ以降、文献に現れることはなく、また作られても居ないと考えられている。

 

4.ローマの鎧

ヘレニズム期が過ぎ、世界の覇権を握ったのはローマであった。

ローマは最初、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川のほとりに形成した都市国家であった。この時人口はたった数千人だったと考えられている。

この都市国家は内部でしばしば身分闘争を繰り広げながら、重装歩兵部隊を中核とした市民軍を組織した。紀元前272年にはイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになり同盟市戦争を得て「ローマ帝国」としてまとまっていくことになる。

この間、ローマは数多くの戦争を経験した。有名なハンニバルとの第二次ポエニ戦争の他にもカエサルガリア戦争、アルジェリアにあった王国「ヌミディア」とのヌミディア戦争、イベリア半島ケルティベリア人(ケルト系)との長年の戦争。キンブリ人30万人と戦い、キンブリ人を「根絶」させたキンブリ・テウトニ戦争…。

このようにローマは共和制時代にも帝政時代も数多くの戦争を戦い抜いたが、この間使われていた鎧は大きく分けて三種類に分けられる。「Lorica(「ロリカ)」「Lorica Hamata(ロリカ・ハマタ)」「Lorica Segmentata(ロリカ・セグメンタータ)」である。これらの三種類の鎧はいずれも並行して使われた。

Loricaはラテン語で「胸甲」を意味する語である。Hamataは「鉤爪」、Segmentataは「断片」の複数形を意味し、要はプレートアーマーのことであった。ロリカは革製の鎧で共和制ローマでは主に士官が着用した。表面にはたくましい筋肉の彫刻が掘られていた。ロリカ・ハマタは紀元前一世紀に至るまでローマ軍団で使われた鎧で、いわばチェーンメイルである。そして、最も有名なのがロリカ・セグメンタータであろう。

 

 

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ロリカ・セグメンタータ

ロリカ・セグメンタータは数多くの金属製の板を組み合わせた精巧なプレートアーマーである。驚くほどの装飾と凝ったデザインを採用している。ロリカ・セグメンタータは紀元100年頃からローマ軍団に支給されるようになった。(ちなみに正規のローマ軍団でない、いわゆる「同盟軍」は先のロリカやロリカ・ハマタを使用していた。理由はコスト面からであると見られている)

ロリカ・セグメンタータは金属製の板を器用に組み合わせたもので、この防御能力は凄まじい。防御範囲は胴体のみに限られるが、その分重量は比較的軽く、機動戦をモットーとするローマ軍団にはうってつけであった。実際、この鎧の防御水準は1000年後の中世十字軍が盛んに使用したチェーンメイルを遥かに上回っているとする意見もある。古代ローマの冶金技術は信じられないほど高い水準にあった。


ロリカ・セグメンタータは真鍮で錆止めがなされた、鉄製の板金でできている。このために槍の刺突で「抜ける」チェーンメイルよりも打撃、刺突の防御にも有効であった。加えて、鎧が細かく分かれている事により体にフィットし、リネン・キュラッサのような機動性を齎すことにも成功している。

さらに、ロリカ・セグメンタータは現在のボディアーマーのようにアレンジが自由で、鎧の装飾に増加の装甲プレートを引っ掛けることで防御能力を向上させる(さながら現代戦車の増加装甲のようだ)ことが「現場レベル」で可能であった。この高性能鎧はローマ軍団の精強さに一役買ったことだろう。

しかし、ロリカ・セグメンタータの欠点は2つあり、まず一にこの鎧を作るのにはとんでもないレベルの冶金技術が必要だった。実際、ローマ以外の冶金技術ではこの鎧を「軍団が装備できる量」を量産するのは不可能であった。古代ローマ時代はこの鎧を大量に制作したが、それが可能だったのは古代ローマの飛び抜けた技術レベルのおかげである。

第二に胴体のみしか守られていないために敵がピルム等(ローマ軍団の投槍。この槍も高い技術力の賜であった)を鹵獲して使用した場合、脚や腕にあたって重症を負うことが合った。加えてイベリアの反ローマ勢力が作った、対ロリカ・セグメンタータ用の特注の「重」投槍であるファラリカなどはピルム以上の脅威となった。

古代ローマにとってコストの弱点はあったものの、性能には変え難かった。この鎧の弱点を克服するために主に「胴体以外の防御能力の向上」が行われ、脚甲や腕甲が配備されるようになったが、脚や腕に鎧をつけることはロリカ・セグメンタータの重要な利点である機動力を削ぐことになったために、使われたのはトラヤヌス帝が行ったトラキア遠征の限られた期間でしかなかった。

結局のところ、ロリカ・セグメンタータは当時の水準を超越した高性能鎧であったが、その技術はローマ滅亡とともに量産技術は失われたとされる。そのため中世ヨーロッパでは「一段劣るが安価で作りやすい」チェーンメイルが使用されていくことになるのである。

 

5.中世の鎧その1

素晴らしい性能を持ったロリカ・セグメンタータも西ローマ帝国消滅とともに失われ、世界は「暗黒時代」へ突入した。ギリシアやローマの技術や知識は散逸され、世界が「退行」してしまった。しかし、進んだ自然科学や社会科学の知識が失われたとしても、決して戦争は亡くならない。

西ローマ帝国の滅亡以降、主流となったのは北方のノルマン人が着込んでいた「ホウバーク(Hauberk)」であった。ホウバークとは古ドイツ語の「hals(首)」と「bergan(防御)」の合成語である。要は「首まで防御できる鎧」という意味だ。これが古フランス語の「Hausberc」となり、現在の「Haubrek」となったと言われている。

ホウバークは簡単に言うと首から脛までを覆う裾の長いチェーンメイルだ。チェーンメイルは金属の輪っかを組み合わせたもので意外に思えるかもしれないが、作るのが簡単である。ローマ軍団に言わせれば「ケルト人は文字を持たないが鎧だけはいっちょまえに作れる!(『ローマ戦史』より)」という具合に、ケルト人のような「野蛮人」でも作ることができた。

が、チェーンメイルなんてのはあらゆるゲームに出ているし解説も大量にされているのでここでは扱わない。問題なのはチェーンメイルと付随して使われた「Cloth Armour(クロスアーマー)」だ。(下図参照)

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クロスアーマー

クロスアーマーはその名の通り「Cloth(布)」で出来ている。布の中に綿を入れた(=キルティング加工)した鎧なのである。キルティング加工自体は古代エジプト王国から行われていた「由緒正しき」技術である。しかし、鎧として使われ始めたのは中世からだとされる。この時代のクロスアーマーはaqueton(エイクトン)だとかgipon(ジポン)だとか言われている。

このキルティング加工が鎧に応用されたのは高性能鎧ロリカ・セグメンタータ製造技術の散逸に関係がある。
打撃・刺突・斬撃・その他あらゆる攻撃を防ぐロリカ・セグメンタータと違い、ホウバークは斬撃には強いが打撃・刺突には滅法弱かった。理由は簡単でただ金属の輪っかを加工しただけだから、槍は貫き通すし、ウォーハンマーで殴られれば金属の輪っかごと内臓器官が「圧壊」することもよくあったのだ。

この対策として使われたのがクロスアーマー(エイクトン)である。キルティング加工により綿を入れたこのアーマーは打撃攻撃に対して衝撃を和らげ、ある程度の防御性能を発揮した。そこで十字軍の騎士たちはしばしばホウバークの下にこのクロスアーマーを着込んで打撃攻撃に対抗しようとした。マンガやゲームの中世騎士はみんなこのクロスアーマーを着込んでいるのである。

このクロスアーマーは、ヨーロッパ史において長い間使われた。皆大好き重装騎兵のフルプレートアーマー、あれの下は実はホウバークであり、更に其の下はこのクロスアーマーだった。もっと時代が下れば「ホウバーク+エイクトン」というべき「padding armour」が登場しフルプレートアーマー下に着る装備として主流になっていく。

しかし…ホウバークとエイクトンを着込んでやっと、中世時代の鎧の水準はロリカ・セグメンタータと同等程度、もしくはそれ以下であったと言われる。ローマ帝国の卓越した技術が「回収」されるのはローマを受け継ぐと自負した十字軍が、異教徒であるイスラム教徒に相見えた時であったことは歴史の皮肉である。

 

6.中世の鎧その2

イスラム文化圏で保管されていたギリシア・ローマの進んだ文化は、皮肉なことに十字軍によって西欧に「再発見」されることになった。

神学的知識、自然・社会科学の見地、歴史書の数々。中世暗黒時代にあった西欧はこれらを急速に「再吸収」し、やっと暗黒時代は終わりを告げつつあった。

この動きは軍事にも現れた。ホウバークのような「簡易的鎧」のひ弱な防御性能に不満を持った十字軍の兵士たちはホウバークの上に多くの「鉄板」を装着し始める。「Coat of Plate」(板金のコート)と呼ばれたこれらの鎧は、その名の通りただの真っ直ぐな鉄板を鋲打ちしただけのものであったが、その防御性能はホウバーク単体の数倍であった。

そしてこの「板金のコート」を十字軍のイスラム文化圏との接触で再回収したローマ式の冶金技術を用いて進化せたのが、「Composite Armor」(合成された鎧)である。

コンポジットアーマーは14世紀~15世紀に亘りあらゆる戦場で使用された。名が示す通り、ホウバークの上から追加の鎧を「合成した」ものであった。(下図参照)

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コンポジットアーマー

兎にも角にもコンポジットアーマー系統の鎧は騎兵向けに特化している。左肩の「Alette」と呼ばれた肩当てはランスによる騎兵突撃の際にランスを支えるのに役立つ。全体を覆う「湾曲した鉄板」はローマのロリカ・セグメンタータの影響を受けているが、これは敵の剣を受け流し、また弓を弾き返す効果がある。頭部まで覆われたこの「重装騎士」はまさに鉄壁であり、彼らを殺すためには、鎧の隙間(関節部)にナイフを差し込み失血死させるしかなかった。コンポジットアーマーは強力なウォーハンマーの打撃でさえ何度も耐えたのである。

コンポジットアーマーはその後「最後の騎士」こと神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世により更に改良される。インスブルックの皇帝専用甲冑工房でマクシミリアン式鎧と言われる鎧を作り出したのである。これは鉄板を波型に加工することで薄い鉄板に強度を与え、軽量化を経ったものである。この鎧は「Complete Suit of Armor」、其の名も「完璧な甲冑」などと呼ばれた。

しかし、このような小細工にも限界が合った。体全体を鉄板で覆うなど物理的に重すぎるのである。コンポジットアーマーのような通常のフルプレートアーマーは50kg以上あり、マクシミリアン1世の「完璧な甲冑」でさえ35kgほどあった。近年の研究でこのような重い鎧でも動けることが立証されているが、それでも長距離の行軍などは不可能である。

このように人が装甲化されていくにつれ、重装騎士の乗る馬も装甲化されていったのも当然の流れであった。重装騎士は長い距離を動けないため、馬が死ぬか、馬からはたき落とされれば、戦場から退避できない騎士は嬲り殺しにされることを意味していた。(実際ハルバードは騎兵を馬から叩き落すことを目的としている)

 

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馬用の鎧

 

ということで馬用の鎧(馬鎧)も作られたのだが(イラストに書いたようにちゃんと部位ごとに細かな名称もある)、これは馬にとって多くの負担となった。乗る人間は筋骨隆々の騎士である。体重は90kgはあるだろう。更に彼は40kgの鎧を着ている。加えて重いランスを持っている。載せる重量はざっと140kgだ。これに馬自身の鎧の重量50~70kgが加わる。

要は馬は200kgもの重量を背負って敵陣へ突撃しなければならなかった。これではいくら訓練された馬でも機敏に動くことなど不可能だ。実際この時代の重装騎兵の突撃はs数百m程度走るのがやっとで、走るといっても早足に近いものであった。しかし200kgもの重量の物体が一団となって死に物狂いでやってくるのである。待ち受ける方はたまったものではなかった。重装騎兵の突撃は何れにしても恐ろしいものであった。

16世紀まで甲冑は騎士の象徴であり、着ているものが百戦錬磨の泣く子も黙る精鋭の騎士ということもあって非常に強い存在感を占めていた。クレシーの戦いでイングランド軍がフランスの重装騎士を撃破したというのがあれほど持て囃されるのも重装騎士がそれほど驚異だったことの証明である。

1212年、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いでスペイン軍の重装騎兵はミラマモリン率いるムワッヒド朝軍を撃滅し、アンダルスを「レコンキスタ」し、イスラムの勢力をグラナダ王国以外から駆逐した。

1410年タンネンベルクの戦いでフリードリヒ・ヴァレンロットに率いられたドイツ騎士団精鋭重装騎兵は何度も何度もリトアニア軽騎兵を駆逐。その後ヴィトフト大公のポーランド軍歩兵部隊を完膚なきまでに叩き潰し、一時はポーランド軍は右翼・中央を突破される事態に陥った。もしヴィトフト大公が敗走したリトアニア騎兵を集め10時間もの戦いで疲弊したドイツ騎士団の重装騎兵の背後を強撃できなかったのならば、ドイツ騎士団の誇り高き騎士団旗は奪われなかっただろう。

1439年オルレアンの戦いに至ってもジャンヌ・ダルクに鼓舞されたフランス軍重装騎兵は活躍し、サフォーク伯爵率いる軍を撃破した。

1453年、コンスタンティノープルの戦いでは下馬したビザンツ帝国最後の騎士はケルコポルタ門前で皇帝ドラガセスとともに玉砕したが、その戦いぶりはバルトグル大将をも畏怖させる戦いぶりであった。彼らはオスマン軍に頭を切り落とされても戦うことをやめず、体をバラバラにしてやっと動かなくなったと噂されるほど激烈に戦った。

1485年のボスワース、1683年の第二次ウィーン包囲…重装騎兵はあらゆる戦場で活躍し、幾度と無く軽騎兵を駆逐し、何度も歩兵をなぎ倒した。今でも彼らの活躍は多くのメディア作品で見ることができる。

しかし銃の誕生は彼らの息の根を止めることになる。しかし鎧がなくなったわけではない。「鎧」が完全に戦場から追い出されたのはライフル銃の誕生からである。

 

 

7.近世〜近代の鎧

「銃の誕生は騎兵を終焉させた」

一見正しい発言に思えるし、多くの歴史書にも似たようなことが書かれている。なるほど、確かに長篠の戦いでは織田軍は鉄砲隊を率いて武田騎馬軍団を破った。ワーテルローの戦いではネイ将軍の精鋭騎兵隊はイギリス軍のマスケット銃兵の方陣の前に敗れ去った。

「銃は世界史を変えた」。これは事実だ。今でも銃火器は世界各国の軍隊で主力武器として使われている。だがしかし、銃はそれほど優れた武器なのだろうか?少なくとも、銃の登場は「鎧」を消滅させるに至らなかったのは確かだ。

よく知られている通り、1419年から長く続いたフス戦争で初めて「軍事史」に銃が登場する。(世界史的には「銃」は1410年ころには登場する。銃の原型となる火薬兵器は10世紀以前から見られるし、火薬自体は中国が7世紀には発見している)

この際の経緯はあらゆるところで述べられているのでおいておくとして、これ以降西洋史では銃が戦いの主役となっていく。なぜ銃がこれほど普及したかといえば、それは素人でも扱えたからである。当時の戦争で活躍したのは近衛兵など少数の「生粋の戦士」と、傭兵などの大多数の「間に合わせの臨時兵」であった。傭兵は金のために戦う。よって練度が低い。このために練度が低くても使える武器が所望されたのであった。

この当時の銃は、確かに練度が低くても扱えた。が、その性能たるや悲惨なものだった。当時の銃の特徴は以下のとおり

1.重量が極端に重く(15kgほど)、取り回しに劣り、その重さのために専用の発射台(今のカメラ用の単脚のようなもの)に据え付けなければ発射不可能だった。

2.弾を込めるのに2分ほどかかった。更にマッチロック(火縄銃)のために、雨の日は発射が不可能だった。加えて火薬の装填量を間違えると顔の目の前で銃身が破裂し死ぬことになる。しかし、火薬の量が少ないと加速しきれなかった鉛球は十分な威力を発揮できなかった。

3.射程距離も短く、有効射程は50~100mほどが精々。最大射程は350mほどあったが、この距離ではまず命中しなかった。そこで命中率を上げようと密集陣形で撃とうにもマッチロックのためにそれができなかった。

一方、イングランドお得意の「昔ながらの」長弓は

1.曲射弾道を描けるために射程距離が長く、300~500mほどの距離まで投射できた。また発射速度も早く毎分6発の射撃が可能であった。

2.密集陣形で射撃することにより「キルゾーン」を形成することが可能であり、突撃してくる騎兵に非常に有効だった

3.重い矢を、放物線上に放つために、落下の速度も加わりとてつもない威力を発揮した。フランス軍の重装騎兵の装甲を容易に貫徹した。

という風に銃登場当時では長弓のほうが優っていた。

昔の兵士に言わせれば「マスケット銃はお話にならないが、17世紀でも長弓のほうがマシだ」だそうであるし、ジェフリー・リーガンに言わせれば「イングランド内戦でもしもう一方がマスケット銃を使わずに長弓を使っていたら、どの戦いも楽に勝てただろう」とのことである。

しかし長弓は習得に2年以上かかるという弱点があり、なかなか広く運用するのは難しかった。

17世紀のマスケット銃兵にはまだまだ騎兵は勝機があったし、何より彼らの装甲はマスケット銃の鉛球をしばしば弾き返した。この時代まだランスを構えた重装騎兵が戦場で活躍していた。そんな彼らを変えたのが18世紀初頭から広まったフリントロック式のマスケット銃であった。


前置きが長くなったが、18世紀になってやっと鎧に大きな変化が現れ始める。それはマスケット銃が進化し、重装騎兵の装甲では弾き返すことが難しくなったからだ。長弓以上の威力を持つマスケット銃が登場し、それに対向するために鎧を強化しなければならなくなったのであるが、もはや不可能であった。鎧がマスケット銃を弾き返すためには長弓時代の二倍の厚さが必要とされるようになったからである。鎧の厚さが2倍ということは重量が途方もなく大きくなることを意味している。前回述べたように、鎧をこれ以上重くすると馬が走れなくなってしまう。もはやフルプレートアーマーは限界であった。

そこで登場したのがキュイラッサ・アーマー(Cuirassir Armor)である。(下図参照)

 

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キュイラッサ・アーマー

 

キュイラッサ・アーマーは銃火器に対向する装甲厚を確保するために、そして馬が走れるだけの重量に抑えるために、人体の急所となる胴体以外の多くの装甲を取り払っている。このために「胸甲騎兵」などと呼ばれることもある。

キュイラッサ・アーマーの防御効果は胴体、上腕部、腿くらいである。この鎧を装備したのは騎兵であり、騎兵にとって突撃する際に暴露する部分を守るように配慮されている。彼らはピストル、カービン銃、サーベルを主に用い、敵陣に突撃する際にはピストルを乱射し、最終的には「サーベルチャージ」として知られるサーベル突撃を敢行した。イギリス市民戦争ではキュイラッサ・アーマー騎兵がマクシミリアン1世時代のようなランスを構えて突撃したのだが、其の結果は完全な失敗に終わった。ちなみにクロムウェルの「鉄騎隊(アイアンサイド)」はこのキュイラッサ・アーマーの亜種の「アーケバーシル(arquebusier)」を装備していた。

最終的に、キュイラッサ・アーマーはどんどん簡略化が進み、19世紀中頃には一番はじめに書いたようなただのブレストアーマー1枚になる。しかし、まだこの頃には鎧は存在し、戦場で活躍していた。それを終わらせたのが、1841年にプロイセン軍に採用されたドライゼ銃(ニードル銃)である。

ドライゼ銃は14.5mm口径の重い弾丸を初速305m/sまで加速する能力をもった「ライフル銃」の登場と普及である(原始的なライフル銃自体はそれまでも各国で使われていた)。これは今までのような低速なマスケット銃とは全く性能が異なるのである。4条に掘られたライフリングは優れた命中精度をもたらし、その有効射程は600mにまで達した。紙薬莢は装填速度を向上させ、毎分12発までの射撃を可能にした。305m/sまで加速された大口径の弾丸は、その重さから運動エネルギーを保ったまま人体に着弾し、強力な一撃を加える。

このドライゼ銃の射撃の前にはどんな鎧も無意味だった。1864年、第二次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争、そして1866年普墺戦争。この二度の戦争でドライゼ銃は猛威を振るった。キュイラッサ・アーマーを着た綺羅びやかなオーストリア軍の騎兵はドライゼ銃の前に無残に散り、近づくことさえできずに平原に屍の山を晒した。彼らの身に着けていた、綺麗に装飾の施されたキュイラッサ・アーマーは無力であった。ドライゼ銃の弾丸は装甲を容易に貫通したし、例え貫通しなくともその強大な運動エネルギーを受けた騎兵は落馬し、死んでいった。オーストリア軍の誇るホワイトコート(オーストリア軍戦列歩兵)は真っ白な軍服を血に染め、地味なプロイセン軍のプルシアンブルーの軍服の前に散っていった。

 

プロイセン軍の活躍を目の当たりにした西洋各国は、すぐさまライフル銃の採用を決定した。そして19世紀末には全ての列強は完全にライフル銃への更新を完了するに至った。これが鎧の終焉であった。西欧鎧はライフル銃の登場によりその命を絶たれたのである。

 

8.終わりに

現在、かつての西洋鎧の残滓ともいうべきボディーアーマーが先進各国に配備されているが、これも多くの場合、セラミックプレートなしでは榴弾の破片を防ぐ程度もので、機関銃弾の直撃を防げるものではない。もちろんセラミックプレートを装填すれば、7.62mmNATO弾の直撃に耐えうるが、これはかつてのフルプレートアーマーのように重く、機動性を削ぐために問題となっている。つまり現在の科学技術でも「鎧」は「銃」に「完璧な勝利」はできていないのだ。

この記事では人用の装甲(鎧)について(当時の私が)述べましたが、戦車や戦艦の装甲の進歩もやりたいですね。気力があったら…

 

 参考資料

三浦権利著『図説 西洋甲冑武器事典』

Arthuer Wise著『The History and Art of Personal Combat』

市川定春著『武器と防具』