VKsturm’s blog

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なぜネットで「在日認定」が行われるのか─ステレオタイプ論と群衆心理から

 1.はじめに

2018年現在、ネット内では現在右翼と左翼が活発に戦っている。ツイッターや5chを見たことがある方は経験した、あるいは目にしたことがあると思われる。そんな中、右翼側の「一部」が国内で何か事件が起こるたびに根拠なく犯人を在日韓国・朝鮮人と認定する行為(在日認定)がたくさん見られる。この記事では在日認定がなぜ行われるかを考えていきたい。繰り返すがあくまで右派の「一部」が行っている行為であり、右派全員がこのような差別的言動を行っているわけではないとご了承願いたい

 

2.「在日」というステレオタイプ─W.リップマンの『世論』から

初めに結論を言うと在日認定は一種のステレオタイプの「防御」である。ステレオタイプに関しては政治学者・社会学者のW.リップマンが著書『世論』で解き明かしているのでそれを元に論及していきたいと思う。ステレオタイプとは、北海道大学教授の山口二郎の言葉を引用すると

様々な情報が氾濫する今日、人はメディアを通してしか事物を知ることはできない。そして、普通の市民は事物について多様な情報を吟味し、正しく事物を知るだけの余裕を持たない。メディアが伝えるイメージが固定化し、人は思考を省略してそのようなイメージに基づいて認識、判断を行うようになる。そのような固定化されたイメージをステレオタイプと呼ぶ。

とのことである。

この固定化されたイメージ=ステレオタイプは誰にでも持っているものであり、特段に右翼が〜とか左翼が〜とかの話ではない。例えば台湾は親日である、というのもステレオタイプの一つである。台湾人の中にも日本の支配を憎んでいた人もいる。日本のゲームはグラフィックが劣る、というのもこれもまたステレオタイプである。大金をかけて作られた美麗なグラフィックのゲームも存在するからである。

では、なぜステレオタイプは生まれるのだろうか。リップマンは『世論』でこう説明する。

われわれは一定の観念を通して外界の光景を観察する。当然、このような観念と外界の光景を結びつける何かがある。例えば、急進派の会合には長髪の男性や断髪の女性が一部いるとするというような場合である。しかし、時間に追われる観測者には、観念と外界にほんの少し関連があれば充分である。こうした会合には断髪を好む人達が集まるということを予め知っている記者にとっては、断髪が二人、ひげ面が四人もいれば、断髪とひげの聴衆だったと報告するだろう。

このような事情には経済性という問題が絡んでくる。あらゆる物事を類型や一般性としてでなく、新鮮な目で細部まで見ようとすれば非常に骨が折れる。まして諸事に忙殺されていればなおさらであるし、現代社会は多忙を極めている。このリップマンのあげた例によれば、急進派の会合における観測者は僅かな事例(断髪とひげ面)をもって、全体を把握しようとした。例外的な事例を元に全体を捉えるのは「思考」という労力の節約になる。もし細部まで捉えようと思えば観測者の思考の労力は極限にまで達し、その思考のために長い時間も要する。しかしリップマンが言うように現代社会はそんな時間もないし、労力を傾ける余裕もない。そこで、ステレオタイプを使うのである。

もう一つ例をあげよう。国内である事件が起きた際に、被害者や犯人のことをイチから知ろうと思えばその労力は大変なものになる。そのときに我々は自分のよく知っている類型を指し示す特徴を現実世界から見つけ出し、ステレオタイプを使って、現実世界を理解するのである。そう、「犯人は在日だ」というように。この論理には、実際に在日韓国・朝鮮人が犯罪を犯したという過去の実例も使われる。つまり、先のリップマンの引用によれば、過去に在日韓国・朝鮮人が犯罪を犯した、という事例を用いて、在日=全員犯罪者と拡大解釈してるのである。詳しくはこちらの記事も参考にしてほしい。

peoplesstorm.hatenablog.com

更にリップマンはこうも述べる。

ステレオタイプの体系は、秩序正しい、ともかく矛盾のない世界像であり、われわれの習慣、趣味、能力、慰め、希望はそれに適応してきた。それはこの世界を完全に描ききってはいないかもしれないが、一つのありうる世界を描いておりわれわれはそれに順応している。そうした世界では、人も物も納得の行く場所を占め、期待通りのことをする。この世界にいれば心安んじ、違和感がない。(…)こうした状態であるから。ちょっとでもステレオタイプに混乱が生じると、宇宙の基盤が襲撃されたように思えるのも不思議な事ではない。

現実の社会は非常に騒々しいものだ。毎日何らかの重大な事件が起きる。交通事故の死亡者数を見ると、我々は交通事故で今日死ぬかもわからない。だがそんなことを考えもせず平穏に一日を送れるのはステレオタイプのおかげなのである。この場合のステレオタイプとは「日本は安全な国だ、私は犯罪にあわない、まさか交通事故で死ぬなんてありえない云々」というものである。このステレオタイプのおかげで我々は「寝ているときにいつ強盗に襲われるか」とか「いつ後ろを歩いている通行人に刺殺されるか」などを気にしなくても生きていけるのである。一部の右翼による在日認定はまさにこれに依拠している。彼らの思い描く日本には「絶対的に正しい国だ、安全な国だ、日本人は他民族(特に朝鮮人)より優れているからそんな凶悪な犯罪事件などを起こすことはない。」というステレオタイプがある。そんな彼らにとって日本国内で日本人による犯罪が起きるのは不都合なことである。ステレオタイプに反するものだからだ。そうしたときに現れるのが犯人の在日認定なのである。つまり、在日韓国・朝鮮人を犯人とすることで、先に述べた日本という国に対しての己のステレオタイプを「防御」するのである。そうさえすれば、彼らは自分の思い描く「日本」というイメージを壊さずに済み、安寧に暮らしていける。

さて、リップマンによれば、もし現実の経験がステレオタイプと矛盾するときは、2つのうちいずれかが起こるという。一つには自分のもっているステレオタイプを再編成するのがきわめて不都合な場合、その矛先を「例外」であると鼻であしらい、証人を疑い、どこかに欠陥を見つけ、その矛盾を忘れようとする。もう一つには、新しい経験を柔軟に脳に取り組み、ステレオタイプの再編成を図る。例えばツイッターなどでは「元ネトウヨです。在日認定などはもうしません」という方もたくさんいるし、私も中学生の時は過激なネトウヨであった。このような人たちは後者のステレオタイプの再編成を図った者たちである。一方、在日認定をする者たちは前者であり、彼らは事件の犯人が日本人だったとしても「それは例外である」として彼らのステレオタイプは「防御」されるのである。このステレオタイプの防御は日本の右翼だけが用いるのではない。アメリカの白人至上主義者たちは事件が起こると、犯人は確かに見た目は白人だが黒人の血を引いているに「違いない」と言って、彼らのステレオタイプ=白人は優秀で犯罪も犯さない、を守ろうとするのである。世界中のあらゆる人達がそれぞれのステレオタイプをもって日常生活を送っている。韓国人の中にも日本も含めた世界の優れた人物は実は朝鮮民族の血を引いている、と唱える集団がいる。これも韓国人=優秀というステレオタイプを用いているのだろう。

もし我々がある物事を真実であるはずだと信じているならば、それが真実であるという例証か、でなれければ真実にきまっていると思っている人間をほとんどかならず見つけ出す。また、具体的な真実がある希望を意味しているときは、この真実を正当に評価することは極めて難しい。在日韓国・朝鮮人=犯罪者という「真実」を捉える者がその例証を見出し、同じように真実だと思っている人をツイッターで見出すのは実に容易い。右翼同士のコミュニティで在日韓国・朝鮮人=犯罪者という「真実」は彼らのやりとりの中で徐々に増幅され、いつしか決定的な真実として扱われるのである。『世論』ではこう述べられている。

一つのことを激しく憎悪するとき、われわれはそれを原因、あるいは結果として、自分たちが激しく憎んだり恐れたりしているほかのほとんどのものに直ちに結びつけてしまう。そうした物事同士は、天然痘と酒場、相対性理論とボルシェヴィズムがまったく関係がないのと同じように無関係である。それにもかかわらず同じ感情を呼び起こすという点で結び付けられている。

感情次第で何でもが他の何でもと関連付けられる。在日韓国・朝鮮人を憎む者はそのとき、全く関係ない「犯罪者」というイメージを呼び起こす。犯罪者と在日韓国・朝鮮人は全く関係がない。それは犯罪者と日本人が関係ないのと同じである。しかしそれにも関わらず、犯罪者も在日韓国・朝鮮人も悪という感情を呼び起こすからといって、結びつけてしまう。*1リップマン曰く─「真の空間、真の時間、真の数、真の関係、真の重さは失われている。出来事はその展望も面も削り取られて、ステレオタイプのなかで凍結させられている」─と。結局のところ、我々は一切は悪いことばかりの体系、さもなければ善いものばかりの体系の中に織り込まれてしまっている。在日韓国・朝鮮人は全くの悪だと捉える体系、逆に在日朝鮮人は全くの善だと捉える体系。これらの体系から抜け出し、真実の在日韓国・朝鮮人を見るというのは非常に労力を使い困難である。些細な出来事がすぐに全体と結び付けられて真実とされる。

ここまでをまとめると、在日韓国・朝鮮人が特に犯罪を犯すというイメージはステレオタイプである。右翼の一部はこれらの在日=悪というステレオタイプを使い、日本=絶対的に安全かつ優れた国というステレオタイプを守っている(防御している)。ステレオタイプは誰でももっているものであり、現代社会という極めて複雑かつ多忙な社会では必要不可欠なものとなっている。くわえてステレオタイプは人種差別や性差別に使われやすい。しかし、我々はステレオタイプがあるからこそ、色々なことに思考の労力を取られず生きていけるのである。在日朝鮮人が犯罪者という一部の者が信奉する「真実」は、ツイッターや5ch内の同じような意見を持つ者の中で純粋培養され、いつしか(彼らには)絶対的な真実として捉えられる。このような働きの中で、右翼の一部内で在日=悪という彼らにとっての「真実」は永劫不滅のものとして君臨するに至ったのである。もちろん、これらのステレオタイプは「南京事件はなかった」とか「731部隊はでっちあげ」などとしても用いられる。人はみな自らのステレオタイプ─それが良くも悪くも─の中で生きる生物なのである。

 

3.「群衆」としての右翼─ル・ボンの『群衆心理』から

前章ではリップマンのステレオタイプ論から在日認定を説明した。この章ではギュスターヴ・ル・ボンの『群衆心理』から在日認定を説明したい。

群衆とは任意の個人の集合を指していて、その国籍や職業や性別の如何を問わない、また個人の集合する機会の如何を問わない。ル・ボンは言う。

ある一定の状況において、かつこのような状況においてのみ、人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える。すなわち、意識的な個性が消え失せて、あらゆる個人の感情や観念が同一の方向に向けられるのである。(…)その時この集団は、ほかにもっと適当な言い方がないので、組織された群衆、いや何なら、心理的群衆とでも名付けよう。

更にル・ボンによれば、心理的群衆の示す最も際立った事実は、次のようなことである。すなわち、それを構成する個人の如何を問わず、その生活様式、職業、性格あるいは知力の類似や相違を問わず、単にその個人が群衆になり変わったという事実だけで、その個人に一種の集団精神が与えられるようになる。 

在日認定を行う右翼達は一種の心理的群衆なのではないかと私は考えている。右翼(もちろんこれは左翼などの他の集団も同じであるが)という群衆にあっては、もう自分の行為を意識しなくなる。ある暗示を受けると、それにかられて、抑えがたい性急さで

ある種の行為を遂行しようとする。ル・ボンによれば下記のとおりである。

(群衆は)暗示と感染による感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが群衆中の個人の主要な特性である。群衆の中の個人は、もはや彼自身ではなくて、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。

つまり、孤立していたときは恐らく教養のある人であったろうが、ツイッターの「◯◯クラスタ」という(インターネット的)群衆にいざ加わってしまうと、ル・ボンが言うように「本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ(…)熱狂的な行動や英雄的な行動に出る」のである。言葉や心象(イマージュ)によって動かされやすく、自身の極めて明白な利益をもそこなう行為に扇動されやすくなる。

ツイッターでは人種差別や外国人排斥を公然と唱える者が後を絶たない。これはある面ではインターネットの匿名性によるものだろうが、もう一つの側面にはル・ボンが言うような心理的群衆の効果があるのだと考える。つまるところ、ひとりひとりは温和な市民でも、それが集合して群衆(例えばネトウヨクラスタ、など)になると、数人の指導者(ネトウヨクラスタ内のアルファツイッタラー、または保◯速報のような極右的まとめサイト)に影響されて、外国人を差別したり、在日認定をしたりといったことをするようになるのである。歴史的な事例をあげれば、フランス革命時の熱狂的な群衆があげられるだろう。ひとりひとりはごく平凡な下層市民でも集まれば=群衆となれば、革命を起こす要因の一つまでになった。群衆の特徴は興奮しやすく、推理する力のないこと、判断力および批判精神を欠いていること、感情の誇張的であることなどが『群衆心理』のなかであげられているが、これらはインターネット上でよく見られるものだろう。繰り返すが、このような行動や状況は右翼に限ったものではなく、左翼もそうだし、色々な◯◯クラスタにも大いに当てはまると考えるべきだ。フォローやリツイートといった機能を持ちなおかつ匿名性のあるツイッターというツール自体が群衆を結成させやすいと考えることもできるだろう。

右翼的な群衆の中では在日が事件を起こすという「神話」が流布されている。それ故に事件が起こったときに安易に「あの犯人は実は在日」などと在日認定を行うのであるが、ル・ボンはこのような神話は集合した個人の想像力によって、事件が驚くべき変形を受ける結果としている。極めて単純な事件でも、群衆の目に触れると、たちまち歪められてしまう。群衆を構成するひとびとの気質が多種多様であるから、群衆がその目撃する何らかの事件に対する見方はまちまちであると思うのは早計である。群衆内の「感染」*2の結果、事件を歪めてみるという行為や意識は同じ性質、同じ意味になる。これをル・ボンは「集団的錯覚」と呼んでおり、この集団的錯覚は、正確に物を見る働きが失われ、かつ現実の事象が歪められるのだが、これはインテリにも当てはまる。インテリでさえ専門外のこととなるや、群衆の性質を帯びる、とされる。各自の有する観察と批判精神とが消え失せてしまうのだ。

ここまでを約言すると、インターネットは一種の心理的群衆 を作り出した。ツイッター内などで◯◯クラスタとして集まった者たちはある種の群衆的性格を持っている。今回の記事のテーマの「在日認定」に関しては、集団的錯覚、すなわち右翼の一部のクラスタが集まったり、またはその指導者であるアルファツイッタラー達やまとめサイトが現実の事件を歪めてそれを見て拡散し、群衆の中にそのような見方(在日差別など)=神話を「感染」させる。群衆は興奮しやすく、判断力などを欠いている。これは個人の特性のせいではなく、群衆という集団的なものに帰する。いくら温和なツイッタラーでも「右派」という群衆となれば平然と在日認定を行い、在日韓国・朝鮮人を差別するのである。何度も重ねていうが、この群衆的作用は右翼だけではなく、左翼などのあらゆるクラスタに関係があることである。この点をご理解願いたい。

 

4.終わりに

ツイッターや5ch内の在日認定について2つの点から今回は考察した。1つ目にリップマンのステレオタイプ、2つ目にル・ボンの群衆心理からである。どちらもおよそ100年以上前の、いわゆる「古典的名著」であるが、現代社会を解き明かす一つの道標になるのではないかと考えている。今回のテーマは「在日認定」のために必然的に右翼、または右翼的なものに批判的になったが、ステレオタイプ論は左翼、はてはヘヴィメタルクラスタなどにも当てはまるし、群衆心理にしても同じである。

ここで考察した2点だが、これはリップマンとル・ボンの著作をかいつまんでいるのであり、彼らの論理はもっと複雑かつ含蓄のある内容である。ブログの都合上(長くなりすぎると読んでもらえない等)、彼らの著作の重要箇所をピックアップし、引用した。もしこれらの論理が気になる方がいたら本を買ってみるのもいいだろう。どちらも文庫で簡単に手に入るのでおすすめである。

 

「私が一個の掟であるのは、ただ私に所属する者たちだけだ、私は万人にとっての掟ではない。」by ニーチェ著『ツァラトゥストラ

 万人のためではない、所属する者たちだけのための一個の掟。そうそれこそがまさにネット内で見られるステレオタイプなのだろう。

5.参考文献

W.リップマン著『世論(上)』・『世論(下)』

ギュスターヴ・ル・ボン著『群衆心理』

塩川伸明著『民族とネイション―ナショナリズムという難問』

  

 

以下駄文

内容的に右派を批判したが、個人的な意見では、右派がいうように国家に愛国心は必要であると考えている。生まれた国を愛するのがなぜ悪いのだろう、自然なことである。(もっともこれが近代の『国民国家』的思想であるのは留意すべきだが)

しかし在日認定や外国人排斥を訴えるのは愛国心ではなくレイシズムであり、それには同意できない。加えて右派の唱える新自由主義的な政策、または過激な反フェミニズム的言論にも全く同意できないが、かといって左派にも傾倒しきれない。これは良く言えば中道、悪く言えば宙ぶらりん・中途半端…。

 

 

 

 

*1:実際G.W.オルポートから、ステレオタイプは人種差別につながりやすいという指摘もある。

*2:ル・ボン曰く「群衆の思想、感情、感動、信念などは細菌のそれにひとしい激烈な感染力を備えている」と。