VKsturm’s blog

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「異世界転生モノ」についてのエッセイ─19世紀植民地ロマンスとの対比から

作品のアニメ化などで話題になっているサイト、『小説家になろう』では多くの「異世界転生モノ」が見られる。これらのテンプレートは、「異世界転生して現代知識で『チート』をし、異世界を発展させるとともに現地の少女たちと恋愛をする」といった具合だ。

私は、この「異世界でチートをする」という構造は現実の植民地主義の比喩であると私は考えている。文明の劣ると考えられたアフリカその他で自国の文化や文明を伝えて、「啓蒙」する。この図式は実に爽快である。何と言っても自国の優位性が明白であり、愛国心─愛する自国の優位性から来る圧倒的満足も含め─を満たせるのだ。そして現地の少女─彼ら植民地支配を行う側からしたら絶対的に弱者である─を手篭めにする。まさしく植民地政策真っ只中の西洋諸国の夢やロマンス願望を煮詰めたものであるのだ。

 

日本は朝鮮半島を植民地支配したが、「西洋の植民地の本場」であるアフリカ大陸ではそれは叶わなかった。まるで(果たせなかったアフリカ大陸での)植民地願望を異世界で充足するといった具合だが、とにかく異世界でチートものはこのような構造を感じてしまう。

  

ところで、このような植民地支配と関連する恋愛ものは英語圏では「colonial romance(植民地ロマンス)」と言われて一定の需要がある。文字通り植民地での恋愛を描くものであり、現地人と(あるいは現地人同士が)恋愛するものである。この植民地ロマンスの日本版が異世界でチートものなのだ、という直接的な考えは宜しくない。なぜなら欧米の植民地ロマンスは当初から反キリスト的要素を持っていたからだ。どういうことかというと、かつてキリスト教規範が強かった時代、恋愛自体が社会ではタブー化されていた。恋愛結婚の誕生はごく浅い歴史なのである。恋愛結婚は社会から禁止されたタブーであり、実際好まれなかった。このような閉塞感の中、植民地というキリスト教規範が完全には到達されていない地を理想化し、そこで恋愛させるという小説が流行ったのだ。

(19世紀)恋愛は教会と結婚の制度に対立するものであった。つまり、反社会的なものであった。反社会的なものであるために、恋人たちはあるいは逃亡を余儀なくされ、あるいは避難所を求める。*1

反社会的な恋愛を唯一満たせるのが植民地であった。植民地で現地の男女と恋愛し、キリスト教規範に縛られずに自由にロマンスに満ちた生活が送れる。そこにタブーなどはない。このような結果として、植民地ロマンス小説は大流行したのだった。

 

さて、日本ではどうだろうか。確かに日本でも恋愛結婚は稀だったが、キリスト教規範という宗教的タブーがあった西洋よりもそのタブーの度合いは低かったのではないか。結論を先に言うと、日本で流行りの異世界転生モノは「植民地での恋愛」を描く点では古くからある植民地ロマンスと同じであるが、反社会的・反教会的要素を持ち合わせていないのである。どこか背徳的要素があったかつての植民地ロマンスと違い、異世界転生ものでは実に恋愛に積極的である。

 

現代における異世界転生はタブーなき植民地ロマンスと捉えることができる。植民地ロマンスの要であったタブー要素は異世界転生には見当たらない。21世紀という、植民地ロマンス全盛期から数百年経った現在ではもはや背徳感や反社会的要素という要は不要どころか害悪なのかもしれない。恋愛結婚というのはごく最近生まれた概念だが、もはや当たり前のように我々の生活に根付いている。もはや恋愛結婚という概念自体が、そこまで持て囃されるものではなく、「当たり前」であり、殊更それを大袈裟に騒いだり作品のテーマに据える必要が無いのであろう。

 

ここまでをまとめると、異世界転生で「異世界」で「チート行為」をしたり現地で恋愛するのは植民地ロマンスと同様(この場合「異世界」が「植民地」になる)だが、その要のタブー要素がないのである。それは21世紀という恋愛結婚の幻想が支配的になった現代では必然なのかもしれない。異世界転生モノの話題を聞くたびに私はこのような植民地との構造や植民地ロマンスを思い出してしまう。皆さんもたまには世界転生モノを、植民地ロマンスの懐かしい時代を創造しながら読むと面白いかもしれない。古今東西、人類は異世界(植民地)でチート行為をし自らの愛国心を満足させ、女性を手篭めにし、更には(西洋においては)恋愛という反社会的行為への背徳感を味わったものなのだから。

 

※作品を晒し上げる意図はないため、具体的作品名を出さずに語りましたが、そのせいで分かりにくくなっており、申し訳ないです。

 

*1:柳原孝敦著『恋愛、植民地、小説 : 十九世紀イスパノアメリカ恋愛小説』