VKsturm’s blog

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「青学サンバゲーム」の民俗学的考察

 

1.はじめに

みなさんは今年の初夏にネットを騒がせたこの動画をご存知だろうか。

この動画に対するネットの反応はまさしく「炎上」というに等しかった。瞬く間に青山学院大学(青学)とこのサンバゲーム(通称「青学サンバ」)、そしてそれを踊ったAmiなるサークルが特定され、大学側が見解を述べる事態にまで発展した。

しかし、私はこの騒動を見ていて不満を持った。誰もこの「青学サンバ」に対する真面目な論考をしていないのである。彼らは青学に入れるだけの知能がある。ただ狂信的に踊り狂ったわけがない。何か理由があって、意図があって踊ったのだと考えるのが自然であり、むしろ必然ではないか。この記事では青学サンバに対する一つの考察を提供したい。

 

 2.動画より理解できること

このサンバゲームの動画に対して理解できることは2つである。

 

a)なにか規則があり、それに則って踊り狂うこと。

b)SEIYU店内で、しかも営業時間内に行っていること

 

まずaに対しては明確に何らかのルールがあることが読み取れる。すなわちこの踊りはただ闇雲に踊り食っているわけではなく、何か絶対の基準となるものが存在し、全員はそれに従って踊っているのである。加えてメンバーは赤色の服3人・黒色2人・白色1人であり、男女比は3:3で計6名である。この人数や男女比、服装の色も考慮する必要があるのは、先に上げたように彼らが明確なルールに従って踊っている以上当然であろう。

bに対してわかることは少ない。SEIYUは低価格路線のスーパーであり、ありふれたものだ。そして営業時間内に客が通行する通路で踊っている。動画からわかることはこの程度にすぎない。

 

以上わかったことを元に考察を進め、彼らの神聖な青学サンバの神秘に一歩でも近づくよう努力したい。

 

3.青学サンバの考察I─踊ることの意味

青学サンバは何か明確な規則に厳密に基づいて踊る行為だというのは2で述べたとおりだが、それを更に進めていく。

まず「踊る」ことは何を意味するのだろうか。柳田國男はこう述べている

祭に音楽を奏し又おもしろい舞を舞ふのは、大昔からの事であつた。その為には臨時に莚を敷き幕を張りめぐらし、又は社殿の傍に常設の舞台を建て、或は祭に奉仕する人の住宅を清めて使ふこともあるが、それは皆何処にその日の神を御迎へ申すかによつてきまることであつた。たゞその舞台を人が舁き、又は車を附けて曳きあるくやうになつたのは、昼間の御幸みゆきの路を賑はしくしようとした為で、是に氏子の者が出演するやうになつたのと共に、新らしい出来事と云つてよい。つまりはぢつとして神を御迎へ申す、小さな祭の方が古いのである。

柳田國男著『祭の様々』

ここで注目して欲しいのは祭で踊るのは昔からのことであり、神様をお迎えする場所で踊ることで、神様を歓迎していたということである。また、祭に付き物の「山車」などは実は後に出来たもので、少人数でごく簡素に踊ることこそが祭の原点だったということがわかる。ただし、柳田は「神様を歓迎」と一つに絞っているが、正確には神様を歓迎するような、つまり霊的な、呪術的な側面が踊りには備わっていたということである。踊りの呪術的な側面は世界共通であり、ネイティブ・アメリカンのゴーストダン*1も例として上げることができるだろう。

また、踊りといえば「歌垣(うたがき)」がある。これは日本古来の農民の間で行われてきた儀式的な集会である。地域差や解釈の違いはあるが、多くの場合、農民たちはこの場で歌い、踊り、食べ、飲み、アニミズム的な神様へ信仰を捧げ、豊穣を祈った。これらはもともといわゆる「収穫の儀式」「収穫の祈り」に密接に関連付けられており、これから派生して子宝祈願や男女の逢引の場にもなった。*2そして彼らは当時お酒を飲んでいたそうだが、これも古来からの儀式との関係性を伺わせる。古来から呪術的なものと酒による酩酊は切っても切れないものであったのだ。

なぜ踊ることがこのような呪術的な側面を持つかといえば、多くの学者が様々な解釈を述べているが、一心不乱に踊ることで一種のトランス状態に到達し─ランナーズ・ハイのようなものだ─それが霊的経験と結びついたのではないかと言われている。それが段々と儀礼化・洗練化されて(専門用語ではこれを「風流化」と呼ぶ)今の華やかなダンスに至るわけである。

さて、ここで青学サンバをもう一度見てみよう。男女が同数(3:3)で赤・黒・白の服で踊っている。この踊りが豊穣の儀式(作物の意味でも子宝的意味でも)なのは明白だ。*3が同数なのもそれを裏付けている。彼らはある程度儀礼化(ルール決め)された踊りを踊ることでアニミズム的神に祈りを捧げ豊穣を祈っているのである。

また、3:3にも意味がある。カバラ数秘術では3は子供を指す数字である。好奇心・行動力を示すとともに、軽率な行動・浅はかな考えも表す。そして3+3=6は美を示す数字だ。つまり子供のような好奇心と行動を踊りとその人数によって示すと共に、それを合わせることで6となり、美的なものまで昇華させているのである。この場合の好奇心や行動は豊穣の意味から見ても、男女同数な点から見てもセックスへ繋がることは明白であり、彼ら・彼女らは─もし神がいるとするならば─子宝に恵まれることは間違いない。

服装についても面白いことがわかる。赤3、黒2、白1であるが、カバラ数秘術において1は父、2は母なのである。つまりこの3:2:1という人数比自体が一種の家庭(父1人・母2人・子3人)を示している。母が2人?と疑問に思うかもしれないが古代社会においては一夫多妻制は広く見られたもので、彼らの踊りが呪術的な側面を重視した古代的なものである以上、ここまで配慮していたのだと思われる。彼らはサークルに属していたそうだが、サークルも部長が部員を指揮する一種の父系家族制度的なものであって、そうしたサークルという擬似家族で更に擬似的な集団(3:2:1)を作り、豊穣の踊りをするのは、よほど子宝を望んでいたのがわかる。なぜそこまで子宝を望んでいたのかはわからないが、とにかく彼らの豊穣への情熱は誰が見ても伝わってくるだろう。

 

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(参考画像:現在も残る豊穣祈願の踊り。ガーナにて)

ここまでを約言すれば踊りの持つ呪術的な側面を、彼らは豊穣へ振り向け、一種の擬似家族を形作り、カバラ数秘術の原理も利用し、酒と踊りでトランス状態に達することで、その祈りの強度を極度にさせているのである。彼らの踊りはおそらくサークル内で儀礼化・儀式化された豊穣の踊りであるのだろうが、ここまで数々の理論を取り入れて、洗練化された踊りはなかなか珍しい。

次の章ではなぜSEIYUで踊りを踊ったのかを考察したい。

 

4.青学サンバの考察II─SEIYUの意味

SEIYUで踊ったことに対して私はいくつかの仮説を立てているが、どれも決定打に乏しい。その中でもある程度受け入れられそうなものをここで取り上げたい。それは「SEIYU=豊穣の象徴であるとともに到達点である」という説だ。

先に引用した柳田の論のように、呪術的な側面を持つ踊りは神様をお迎えする場所で行った。つまりSEIYUのあの場所に神様をお迎えするような要素があった、または神様がいると考えられていたということになる。SEIYUはスーパーであり、多くの食品に溢れている。動画を見る限り精肉コーナーの前の通路で行ったとみられる。精肉コーナーには多数の肉が陳列されている…。

SEIYUは食品に満ち溢れた豊穣の象徴ではないか。SEIYUに行けば色とりどりの野菜や様々な魚や肉が置いてある。まさしく資本主義の極地であり食の豊かさの象徴だ。彼らはSEIYUを一種の霊場とみなして、豊穣の神様がいるところに見立てたのかもしれない。

また、精肉コーナーというのも意味がある。古来より儀式では「生け贄」が必要だった。旧約聖書のカインとアベルもそうだ。神には捧げ物をしなければならぬ。彼らは精肉コーナーで踊ることで、精肉コーナー全体にある大量の肉を神に捧げたのかもしれない。お墓にお酒や花を供えるように、現実で消費されていなくとも、神や霊は受け取ってくれているというのが世界共通の概念だ。イデア論や形而上学的な話のようだが、我々は普段お墓に故人が好きだったお酒を供えるなどの行為でかかる概念を実践しているのだ。彼らは精肉コーナー全体の肉を供物としたのであり、繰り返しになるがよほど強烈に豊穣(子宝)を祈っていたのがわかる。サークルで代々受け継がれている踊りらしいので、もしかしたらあのSEIYUの精肉コーナーも代々青学サンバという名の呪術的な踊りで使われる「霊場」なのかもしれない。

 

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(参考画像:SEIYUの精肉コーナー。様々な「生け贄」が並ぶ)

とにかく、私はこのようにSEIYUの意味を考えた。だが「スーパーなら他にもある。なぜSEIYUなのか?」という疑問に答えられはしない。これは本人たち、あるいはサークルOBに直接聞いてみるしかないと思われる。彼らの中では何か明白な、それでいて秩序だった規則があり、それがSEIYUにつながっているのだろう。

 

5.まとめ

今まで述べてきたように青学サンバとは高度に洗練・儀礼化された豊穣の祈りの「儀式」である。彼らは様々な要素を駆使し、SEIYUで踊ることでアニミズム的神に祈りを捧げているのだろう。彼らに祈り通りの、子宝が現れんことを。

彼らの世界観は「はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの のりのみちをば しる人ぞしる」*4のままであり、それ自体は悪いことではない。しかし、実際問題として精肉コーナーで踊られるのは店としても客としても厄介だ。

私は青学サンバは民俗学的に興味深いものであり、Amiというサークル含めて保護すべきだと考えている。彼らの踊りは伝統があるのだろうし、そこに豊穣の祈りがある。具体的にどうすればいい、とはいえないが、彼らの誇りある青学サンバという子宝祈願の文化は残っていてほしい。もう今では踊ることが祈りであることをみんな忘れてしまった。民俗学をやる学生が知るだけだ。そんな中、あのような踊りで祈りを現役で行う集団がいることは、しかも日本にいることは奇跡なのだ。どこか彼ら専用の霊場─青学サンバ専用のSEIYU─などができればいいのだが…。

そして、私は青学サンバについてもっと本格的に研究してみたい。もし青学に通う学生がいたらぜひ私に青学サンバについて教えを請いたい。かかる民俗学的事象は軽く扱ってはならない。そこには深い意味と伝統、そして豊穣の祈りが込められているのだから。教えてくれる方はツイッター(@teslamk2t)まで連絡をお願いします。(請願)

 

ザポロージェ人といえば、実に素晴らしいものでな! 立ちあがってシャンと身体を伸ばすと、雄々しい口髭を捻って、靴の踵鉄の音も勇ましく踊りだしたものだ!そのまた踊り方といつたら、両脚がまるで、女の手に廻される紡錘そっくりで、旋風のような速さでバンドゥーラの絃を掻き鳴らすかと思うと、直ぐさまその手を腰にあてがって、しゃがみ、踊りに移る、歌をうたう――心もそぞろに浮き立つばかりだ……ところが今ではもう時勢が変って、そうしたザポロージェ人の姿も滅多には見られなくなった……

ニコライ・ゴーゴリ著『ディカーニカ近郷夜話 紛失した国書』

 

ああ、青学サンバよ、ザポーロジェ人のように消えゆくことなかれ!

参考文献

柳田國男著『祭の様々』

・エルンスト・ミュラー著『ゾーハル―カバラーの聖典

日本学術会議文化人類学民俗学研究連絡委員会著『舞踊と身体表現』

・青学サンバの動画(URL前掲)

 

 

 

最後に一言

 

これはネタ記事です(一応言っとかないと誤解されそうなので…)ただし考察自体は文献読んでまじめにしてあります…

 

 

 

*1:精霊に祈りを捧げれば不死の肉体を手に入れ白人を駆逐できるとする信仰。しばしば名前の通りダンス=踊りによって祈りが捧げられた

*2:作物の豊穣と子宝が同様に結び付けられるのは世界各地にある概念で、男根崇拝=ファルスという形でしばしば現れる

*3:英語の豊穣=fertilityはラテン語由来だが、この言葉は土地の肥沃さと子宝、どちらも示す言葉なのである

*4:一遍聖絵