VKsturm’s blog

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ミリオタの「攻撃性」について─エリート主義と文化資本からの考察

※例によってとても長いです

 

1.はじめに

ネット上ではオタクは攻撃的だという言説に満ちている。私は軍事オタク(ミリオタ)であるので必然的にミリオタとはよく接するのだが、特にミリオタは攻撃性が高いと話題になっている。

例えば、このようなトゥギャッターまとめさえ存在する。

togetter.com

このまとめの要旨は大手のミリオタ、つまり「アルファ」が攻撃的であり、我々非アルファは「優しいミリクラの会」を結成し万人に優しくしていこうというものだ。こんなまとめができるほど、そしてTwitter内のミリオタの内部からそれが指摘されるほどミリオタの攻撃性は問題になっているようだ。

ところで、このようなミリオタの攻撃性というものは実はオタク全般に見られる傾向なのである。今回の記事ではなぜオタクが攻撃的なのか、そしてミリオタはなぜその中でも危険視されるているのかを客観的に解説していきたい。

この記事の論拠となるのは岡田宏介氏が著した『音楽――「洋楽至上主義」の構造とその効用』という論文である。この論文中では洋楽至上主義とでも言うべき洋楽オタクたちの排他性や攻撃性が詳細に研究されているのである。これらの洋楽オタクたちの性質とその根源を解説した上で、ミリオタという個別具体的な例を研究していきたい。重要となるキーワードはエリート主義文化資本、この2つである。

 

2.オタクのエリート主義とその根源

ここでは岡田の論文の内容を簡単に説明していき、オタクのエリート主義について解説してきたい。

突然であるが、あなたはこのようなオタクを見たことがないだろうか?

「自分の好きな音楽や漫画、映画などをやたらと勧めてくる人間」、「洋楽(この場合は英米ポピュラー音楽、またはそれに影響を受けた音楽体系を指す)を神のように崇め、布教し、邦楽をこき下ろす人間」…。

彼らに共通するのが自らのアイデンティティをそれらのポピュラー文化に求め、それらのポピュラー文化を知っている「自分」をエリート主義的に捉えているという点である。

かかる論理はフランスの社会学ブルデューディスタンクシオン論の影響を受けている。すなわち、欧米のような明確な階級社会においては趣味や嗜好が階級毎に別れており、明確な差異(distinction=ディスタンクシオン)が存在するという論説である。この場合の趣味や嗜好というのは例えば上流階級はクラシック音楽や絵画鑑賞(いわゆる高級芸術)を好み、下流階級はポピュラー音楽やゴシップ誌(サブカルチャー)を好むといったようなものである。日本においてもこれらの傾向は存在するとされ、武蔵野大学の舞田敏彦のブログで研究されている。(データえっせい: ディスタンクシオン

このディスタンクシオン論では比較対象は高級芸術とサブカルチャーというものであった。岡田はこのような「差異」はサブカルチャー、ポピュラー文化内でも存在しているという。つまり上流階級が下流階級を高級芸術の教養があるかどうかで区別したように、日本においてはブルデューで言うところの下流階級である我々の内部、つまり下流階級同士も趣味や嗜好で区別しあっているのである。

この理論は比較的わかりやすいと思う。実際我々はお互いをポピュラー文化の趣味嗜好で区別しあっている。わかりやすいのが岡田が例にあげているように洋楽オタクである。彼らはポピュラー音楽内でも「英米のもの(洋楽)」「日本のもの(邦楽)」と区別し、邦楽を見下す傾向にある。このようなエリート主義的傾向を持つ者はあらゆるジャンル─例えば映画オタクなどがわかりやすいだろう─に見出すことが可能であろう。

では彼らがどうしてそれらのポピュラー文化に自らの卓越性を求めうるかと言えば、それはそれらのポピュラー文化(例えば国内市場シェアが少ない先述の「洋楽」等)が、マイノリティによって支えられており、その数的マイノリティ性がそれ自体に付与される美的価値を増大させ、その数的マイノリティゆえにもたらされるエリート主義的傾向を、ますます強化することになるからである。

加えて、先にあげた社会学ブルデューによれば、「クラシック音楽等の高級芸術はその鑑賞に美的努力を要求し、その結果として生じる満足を刺激する」という。

クラシック音楽を楽しむには作曲者の経歴や時代背景等を知っていなければならない。これらの鑑賞にあたって必要とされる美的努力はポピュラー文化の一部にも当てはまり、例えばサブカルチャーにおいてはその作品の歴史的意義や作品的価値を語りかけるメディア上の諸言説が、往々にしてセットとなって存在し、評価されるのである。これらは『新世紀エヴァンゲリオン』や『機動戦士ガンダム』に付随する大量の言説を見れば明らかだと思う。『エヴァ』を語る際にポストモダンセカイ系という言説を避けることが出来ないのと同じで、これらのサブカルチャー作品においても鑑賞には一種の美的努力が必要となってくる。

更にこれらのメディアの言説空間に参入するためにも、もっと言えば、それに付随する読者共同体(ファン共同体)に参入するにも共有言語・共通感覚とそれ相応の知識、文化資本が必要とされる。もしそれらが無ければ会話さえままならないだろう。これらはTwitter内の「クラスタ」を思い浮かべればわかりやすい。各クラスタ内で独自の文法が存在し、必要とされる知識がある。そして、こうした点もポピュラー文化に詳しい者、すなわち「オタク」のエリート主義を推し進め、卓越化の根拠として提示されるのである。洋楽至上主義なるエリート主義はこのようにして誕生したと岡田は述べている。

ここで特筆すべきは、高級芸術の美的努力とこれらポピュラー文化の美的努力の大きな違いは、ポピュラー文化の場合の「努力」は極めて日常的で具体的な文脈と実践の中で行われるという点であるが、ここでは話の本筋ではないため別の機会に述べるとしよう。

3.オタクはなぜ攻撃的なのか

ここまでポピュラー文化に精通した者、すなわちオタクのエリート主義について述べてきた。では本題に入ろう。彼らはどうしてそれら個人的趣味を人に押し付けるのか?また共同体外を攻撃するのか?

それは、オタクの持つポピュラー文化に対する知識や感性、いわゆるポピュラー文化資本と呼ばれるものが実生活に役立ったり、その保有者の社会的地位を向上させることには繋がらないからである。

例えば、どれほど映画の知識があろうが、漫画の知識があろうが、だからと言って一流企業に入れるわけではない。(もちろん恵まれた一握りのオタクはこれらの知識を職業面で活かすことは可能だが、その数は遥かに少数であることは言うまでもないだろう)

つまり、オタクの持つ文化資本をより実利的な経済資本へと転化させることは、実質的に不可能と言って良い。

だからこそ、彼らはその保有する知識を少しでも生活、とくに人間関係の中で生かそうと、周りに自らのポピュラー文化資本に精通していることをアピールするのだと岡田は述べている。「私はこんなにマニアックなものを知っている。凄いだろ?お前たちより俺は詳しいんだ。すごいんだぞ。」という風に。そして相対的に知識が少ないものをエリート主義から見下し、批判・揶揄する…。これらはミリオタでよく観察されるが、岡田が言うように洋楽オタクも洋楽至上主義により邦楽オタクを馬鹿にして突っかかり、貶し、それにより自らのポピュラー文化資本への精通度をアピールしていた。つまりこれらのオタクの攻撃性は、オタク全体の有する性質と言っていいのである。ブルデュー的に言えば、これらの攻撃性も「ディスタンクシオン」に規定されたものであり、これらの攻撃性態度さえ紋切り型なのである。

このようにして外部に積極的に自分の趣味をアピールし、そして攻撃的になる現在のオタクが出来上がった。それも自分の持つポピュラー文化資本を少しでも生活に役立てようとする心理からなのである。昨今流行りの「自己承認欲求」という言葉を使うことも可能だろう。

 

4.ミリオタはなぜ特に危険とされるのか

今までの論説は基本的に岡田の論文を簡略化したものであった。岡田は洋楽オタクを研究したものの、ミリオタは研究していない。つまりここからが私の独自論となる。

端的に言えばミリオタが攻撃的なのは、他のポピュラー文化よりもミリタリーにおいては客観的事実が非常に重視され、それによって知識量の優劣ではっきりと「差異」が生まれるからだ。ここではミリタリー知識はポピュラー文化資本と位置づけているが、ミリタリー知識は自衛隊防衛省においては職業で必須の知識であり、また軍事評論家などは経済資本に活かすことが可能であるのは言うまでもない。ここで解説するのは、このような経済資本に転化することの出来ない私のようなミリオタの場合であることを承知してもらいたい。

これまで述べてきた洋楽オタクとの対比をしてみよう。例えば洋楽オタクがTwitterでこのようなツイート─「Dream TheaterはSymfonyXより演奏がうまいね」─を見つけたとする。この場合洋楽オタクは個人的な心情によって突っかかることはあるかもしれないが、大方無反応だろう。音楽において演奏の優劣は簡単には付け難く、しかもプロのバンドとなればほとんどのバンドが卓越した演奏能力を持っているのが普通である。これらのバンドの演奏技術は結局は主観的意見で決まってしまうのであり、それに対して外野からもあまり意見を出せないのだ。主観的意見の水掛け論に発展し、永遠に結論がつかないからである。

(※Dream Theater、SymfonyXともに洋楽の有名バンドである)

一方ミリオタがこのようなツイートを見つけたらどうだろうか。すなわち「I号戦車V号戦車パンターより強いね」のようなツイートである。ミリオタなら突っ込みたくなるだろう。兵器には一般的に性能諸元があり、それらの客観的事実によって比べるのがミリオタ内の「文法」なのだ。いくら主観的意見だと断って「I号戦車V号戦車より強い」と述べてみても、ここでは通用しない。繰り返すようにミリオタの内部では客観的事実が最優先され、 洋楽オタクの場合のように主観的事実は考慮されにくい。この結果、ミリオタはミリタリーに関しては公式資料・公式記録などの客観的事実を元に、容易に「自らのポピュラー文化資本をアピールする」ことが可能となる。主観的意見が発生しにくいために知識ある者が知識のない者を「打ち倒せしてアピールできる」状況が他のポピュラー文化資本より発生しやすいのである。

(※I号戦車V号戦車と共に有名なドイツ軍の戦車である。V号戦車の戦闘能力はI号戦車を圧倒しており、客観的に考えてI号戦車に勝ち目はない。I号戦車V号戦車の例は極端な例だが、実際はもっと細かい差異をめぐって日々論争が起きている)

このようにして、ミリオタは他のオタクよりも攻撃性が高いとみなされてしまう。つまり極論で言えば「他人にツッコミを入れやすい」ジャンルなのである。先に述べたようにこれらのツッコミを入れるということさえブルデューに言わせれば「ディスタンクシオン」に規定された行為だ。我々は無意識にこれらの行動を行ってしまうのだ。(他人にツッコミを入れて全員でその話題を共有することで一体感を高めるというのはミリオタ特有のものではないが、ミリオタにおいて顕著に見られるのは指摘されるべきだろう)

 

5.終わりに

本稿ではオタクのエリート主義と文化資本という2つのキーワードからオタクの攻撃性、そしてミリオタの攻撃性について説明してきた。何度も述べているように、そして岡田が言うようにポピュラー文化資本に精通するオタクはそもそもが攻撃的性質を持っており、ミリオタの場合それが客観的事実が何より重視されるために顕著なのである。

しかし諸君らはこう思うかもしれない。「なるほど、オタクはエリート主義的部分があり、文化資本を活用したいがために攻撃性を発揮すると。そしてミリオタは客観的事実が優先されるためにそれがよく現れていると。しかしミリオタはそれにしても異常ではないか?一般人にあれだけ突っかかるのは正気の沙汰とは思えない。アルファツイッタラーの個人的資質もあるのではないか?」と。これについて私も色々思うことがあるものの、ミリオタ以外のジャンルのアルファツイッタラーの言動を把握しきれていないため、言及しなかった。機会があればこれらについても解説していきたい。またミリオタ発達障害説という言説(ミリオタには自閉症スペクトラム障害のものがおおいのではないかという説。鉄オタに知的障害者が多いという説との類似性がポイントとなろう)もネットで散見されるが、こちらについても調査不足のため言及しなかった。ご容赦願いたい。

 

 

自分もミリオタだから思うのだけども、「優しいミリクラの会」ではないが、なるべく穏健派として生きていきたいな、と此の糞長い記事を書いてて思いました…みんなも優しくなろう…

 

参考文献(順不同)

佐藤 健二 ・吉見 俊哉 編『文化の社会学』(岡田の論文を収録)

ブルデュー著『ディスタンクシオンI 社会的判断力批判

同上『ディスタンクシオンII 社会的判断力批判

石井洋二郎『羨望と欲望─ブルデューディスタンクシオン』を読む』

 

 

「統合失調症ビジネス」の誕生─妄想の統一化とその根源─

※非常に長いので時間のあるときにお読みください。

 

 

はじめに

統合失調症、それは極めて身近な病気だ。発症確率は全人口のうち1%とも言われ、つまり一学年の中に数人は統合失調症患者がいる(あるいは将来的に発症する)ことになる。

統合失調症患者に対する偏見は数限りない。殺人を犯す、凶暴になる、人格を失う…。これらの世間に流布しているイメージは、実はある一面では事実である。具体的にはネットで有名な林先生ことDr.林(林公一)氏の書いた『統合失調症─患者。家族を支えた実例集』の中に取り上げられている。統合失調症は治療で抑えることはできるのだが、この治療をしなかった場合最悪の出来事が─あなた方が統合失調症に抱くイメージ通りのことが─起こりえるのである。

 

統合失調症―患者・家族を支えた実例集

統合失調症―患者・家族を支えた実例集

 

 とにかく、統合失調症は今や非常にありふれた病気である。そしてこれら「かなりの数がいる」統合失調症患者相手に悪どい商売をする連中も存在する。今回の記事では統合失調症患者相手に悪質なビジネスを行う者を「統合失調症ビジネス」と称して解説をしていきたい。(この言葉は完全な造語です)

 

統合失調症の概説

 

この記事では統合失調症患者がなぜ悪質なビジネスの対象にされてしまうのかを説明したい。これにはまず統合失調症の特徴の一つである思考障害・認知機能障害を上げねばならない。

統合失調症はよく知られているように妄想・幻聴等の症状がある(よくイメージされがちな幻覚の症状は実は少ない)。妄想は被害妄想と関係妄想に大別され、被害妄想では自分が尾行されている・未知の手段で攻撃されているなどの妄想が生じる。集団ストーカー妄想や電磁波攻撃妄想─これらはツイッターでも見受けられる─などはこれらの被害妄想に当たる。関係妄想は本や新聞、テレビやネットが全て自分のことを言及しているのではないかと考え始める。ツイッターで「あなたのことには言及していないのに、なぜあなたは私のツイートにしつこく絡んでくるのか?」というような事態に遭遇したことはないだろうか?これらはもしかしたら関係妄想によるものかもしれないのだ。これらの妄想とは若干マイナーだが思考に関する妄想というものがあり、この場合患者は相手の心が読めたり、また自分の心が読まれていると感じるようになる。わかりやすく言えば、さとり妖怪とサトラレと全く同一の状態と言っていい。この思考に関する妄想もインターネット上では見ることができるだろう。何度も言うように統合失調症は身近な病気であり、あなたは自覚がなくとも日常生活・ネット双方で(治療中・未治療問わず)統合失調症患者たちと幅広く遭遇しているはずだ。

だが、これは統合失調症の持つ多くの側面の一つに過ぎない。統合失調症ビジネスを語る上で特に重要なのが先に述べた思考障害・認知機能障害である。これらの障害は米国メルク社が発刊する医療マニュアル『メルクマニュアル』で詳細に述べられているのだが、これを要約すると下記のようになる。

1.統合失調症の思考障害は解体した思考、話題がとりとめのないものになる等が含まれる。

2.統合失調症の認知機能障害は注意力・判断力・社会的相互関係の理解力・問題の解決力の低下等がある。これらの患者は思考の柔軟性に欠け、他者の意見に耳を貸し、また経験から学び取る力の低下が見られる。加えて機能遂行障害を伴うのが典型で、仕事や家族関係が破壊され、自己管理能力が喪失し、社会や家庭からの孤立化が発生する。

 つまり、統合失調症は世間一般で思われているような妄想・幻覚・幻聴に悩まされるだけではなくこれらの脳機能の全体的低下が見受けられるのである。統合失調症患者が悪質ビジネスのターゲットにされるのは主にこれが関わってくる。

 

統合失調症患者はなぜ「鴨」にされるのか1─妄想の根源─

 

統合失調症患者がなぜ「鴨」にされてしまうのか?これは一言で言えば、統合失調症患者の妄想と判断力低下がからみ合って「非合理的思想」が生まれ、この非合理的思想に浸けこんで儲けようとする連中が発生するからである。

だがあなたはこう思わないだろうか?

「なるほど、統合失調症患者の妄想や機能低下に浸けこんで商売をしようとする連中がいるのはわかった。しかしだね、統合失調症患者の妄想は患者ごとにひとりひとり異なって、多岐に渡るのではないか?そんな色んな症状の患者にぴったりあった商品を用意して売るのは、コスト的に割にあわないのでは?」

だが、統合失調症患者の妄想は実は似通っているのだ。これには統合失調症患者の妄想 の根源を探求せねばならない。そして統合失調症患者の妄想がなぜ「統一化」されたのかを知れば統合失調症ビジネスの仕組みもわかってくるだろう。

まず現在の統合失調症患者の統一化された妄想が具体的に何であるのかを列挙したい。気になった方はこれらのキーワードでぜひ検索してみてほしい。実例を見ることができるだろう。

1.集団ストーカー妄想:これらの妄想は「不特定多数の敵意ある者達」にストーキングされているという妄想である。ガスライティングとも呼ばれる。

2.電磁波攻撃妄想:これらは電磁波、あるいは未知の電波で攻撃されていると訴えるものである。自衛隊のレーダーサイトから未知の電波が発せられ攻撃されている、とか隣の家が電磁波攻撃をして私の頭のなかをめちゃくちゃにしているなどがこれに当たる。311後ではこれに付随して放射線を攻撃に使っていると主張する者も発生している。

3.盗聴妄想:自分の部屋が何者かに盗聴されていると考える。このために部屋中の壁を引き剥がして盗聴器を探したりしてしまう。

これらの妄想はネット内で幅広く見られる。これらの根源にあるのは「自分が何者かに被害を受けている」という考えである。ここでポイントなのが、統合失調症患者の被害妄想のメカニズムはあなた方が考えるメカニズムと全くの逆だということだ。

例えば集団ストーカーを例に挙げよう。あなたは街中で数台の車があなたを付け回しているのに気づく。あなたは不審に思い、こう考える「私は集団ストーカーにあっているのではないか!」と。

さて、統合失調症の場合はどのようなメカニズムだろうか。統合失調症患者の場合の被害妄想の発生はこのようになる。患者は日頃から「私は何者かに何らかの攻撃を受けている」と確信していた。しかし何に攻撃されているのだかわからない。その時、街に出るたびに不審な車によく会うことを思い出した。そこで患者は理解した。「私は集団ストーカーにあっているのではないか!」と。

つまり、患者は「私は何かに攻撃を受けている」という確信や疑念が初めにあって、その疑念に理由付け─大抵の場合これはこじつけに近い─を行うのである。先に述べた認知機能障害もこれに拍車をかけ、理由付けが更に非合理的なものになってしまう。統合失調症患者にいくら「集団ストーカーなどは存在しない」と説得しても、それは無意味である。なぜなら彼らは自身が被害を受けているという確信がコアにあるので、いくら被害妄想の「理由付け」を否定しようがその根本である確信は一向に崩れないのである。

これらの被害妄想の「理由付け」の部分が肝心なのだ。統合失調症患者の妄想が、正確には妄想の理由付けが統一化した理由。それにはインターネット上の統合失調症患者たちのやり取りが大きく影響しているのである。

 

統合失調症患者はなぜ「鴨」にされるのか2─妄想の統一化─

 

未治療の統合失調症患者たちは盛んにネットで自分が受けている「被害」について意見交換をしている。これらの意見交換の中で妄想の理由付けの統一化が図られていったのだが、いくつか紹介してみたい。然れども統合失調症の症状に(病識がないながらも)苦しめられている個人サイトやYoutubeの動画を槍玉に挙げて批判するのはいかがなものか。なので、既に2chツイッター、その他の媒体で有名になったものを主に紹介したい。

統合失調症の妄想の典型例とも言える「集団ストーカー妄想」を広めたサイトは明らかになっている。それがこの『An Anti-Governmental Stalking Activity Site(AGSAS) ~ 疾病偽装、医療偽装、安全安心偽装ストーキング情報サイト ~』と名乗るサイトだ。

AGSAS 〜疾病偽装、医療偽装、安全安心偽装ストーキング情報サイト〜

このサイトが何をしたかといえば、海外で既にあった概念である「集団ストーカー」を国内の患者たちに広めたことである。具体的にはこのサイトは、様々な嫌がらせを列挙している『Gaslighting: How to drive your enemies crazy』という洋書を国内で(おそらく)初めて紹介した。そして、この本を根拠として集団ストーカーが存在する、あなたを傷つけていると述べ立てた。これが日本国内における「集団ストーカー妄想」の源流と言っていいだろう。換言して言えば、国内における集団ストーカー妄想の典型例はこの本に書かれていることと同一である。集団ストーカー妄想を抱いている者の訴える「集団ストーカーの実例」はこの洋書に書かれていることなのである。

ここでポイントなのは、この本は統合失調症患者の妄想を書き連ねた本では決してなく、「嫌いな人に嫌がらせするにはこのような手段があるでしょう」といったいわば嫌がらせ指南書なのである。このような指南書を根拠として扱うのは実に非合理的なのだが、洋書という一種の権威があるためか国内では未だに集団ストーカーの根拠や手口の「聖書」として使われている。余談だが、Youtubeなどに大量に上がっている、「集団ストーカーの証拠」などとして(無関係の)車を盗撮するような行為はこのAGSASが広めたと考えられている。

 

Gaslighting: How to Drive Your Enemies Crazy

Gaslighting: How to Drive Your Enemies Crazy

 

 

このサイトは「私は何らかの被害を受けている」と悩む統合失調症患者たちに大きな衝撃を齎した。監視妄想やスパイ妄想といった曖昧、非統一的だった妄想はこのサイトによって「理論付け」され、統一化を果たすことに成功した。実際これまで支配的だった監視妄想などは「隣人が窓からずっと監視しているに『ちがいない』」とかで、理論的に整ったものではなく個人個人で訴える内容が大きく異なるため、統合失調症患者同士の交流も少なかった。集団ストーカーというある種の規則だった妄想が「理論」として広まることで、皮肉なことに統合失調症患者の交流が活発化したのだ。統一だった妄想の理論付けが如何なる結果を齎したかといえば、集団ストーカー被害者の会ネットワークなどをご覧頂きたい。患者たちは結束し、交流し、集団ストーカー妄想は更なる深みにはまっていくことになる。今や統合失調症患者の抱える不安や疑念に関するキーワードを検索すればこれらのサイトが出てくるのだ。もちろんそうした統合失調症患者たちは残念ながら治療の機会を逃すことになる。周りが如何に諭そうが「それが集団ストーカーの手口だ!」と聞く耳を持たないだろう。 

 電磁波攻撃妄想や盗聴妄想もこのように(統合失調症患者の中で)決定的影響力を持つサイトが広めた「理論化された妄想」だ。「何らかの被害を受けている」と悩む患者は電磁波攻撃のサイトを見て、自分の被害が電磁波攻撃だったと誤った理解をする。そしてまたこの患者も同じような電磁波攻撃に関するサイトを立ち上げ…このような一種無限ループのような構造で妄想は統一化され、支配的となっていったのである。

とはいえ、電磁波攻撃妄想と盗聴妄想に関しては広まったのはネットが原因だとはいえ、おそらく発端は別にあると思われる。例えば電磁波被害は左翼系団体が自衛隊のレーダーサイトにケチを付けるために古くから方便として利用していたし、盗聴に関してはテレビなどで何度も「美女の部屋から盗聴器発見!」のような番組を流してきた。加えて映画などで盗聴はよく使われるモチーフだ。このように電磁波攻撃や盗聴に関しては妄想の理由付けとしては古くから存在していたと思われ、「目につくようになった」理由はネットの発達で患者たちの主張が可視化されたからだろう。放射線攻撃妄想はもちろん3.11で放射線障害などがテレビで何度も取り上げた結果、また反原発団体が恣意的に放射線の被害を煽った結果、急速に広まったのは言うまでもないだろう。

ここまでを纏めると、ネットによって「理論付けされた妄想」が紹介された結果、統合失調症患者たちは自らが抱いていた被害妄想の理由付けにこれらを利用することになった。洋書という権威付けや電磁波といった一見科学的で正しそうな理論─もちろん非合理極まりないのだが─は患者たちの中で広く受けいられ、2016年現在妄想が幾つかのパターンに分類できるまでに統一化されたのである。これらの誤った科学で理論武装した統合失調症患者たちは互いに統一化された妄想を持って交流することで「私以外にも同じ被害を受けているものがいる!やっぱり集団ストーカーは存在するんだ!」と妄想を更に強固にしてしまった。これは悲劇としか言いようが無いだろう。

そんな強固で、パターン化された妄想を有する患者たちに近づく者達が発生し始めた。そう、統合失調症ビジネスの誕生である。

 

統合失調症ビジネスの誕生

 

これまで述べてきたように、ネットの発達により妄想は統一化され、同じような被害を訴える統合失調症患者が多くなった。このような患者たちは同じ願いを持っている。すなわち早く集団ストーカーや電磁波攻撃から楽になりたいという切実な願いだ。ここで彼らが病識を持っていたら精神科に行き、それで解決する。だが、残念ながら妄想の統一化と交流により強固な妄想を抱いた彼らが病識を有することは稀で結果として悪質な統合失調症ビジネスに騙されることになる。認知機能障害などで判断力が鈍っていることもこれらに騙されることを後押ししてしまう。また、あなたがもし実は統合失調症だとして、他人に「あなたは統合失調症だ。治療が必要だ」と言われてもすぐに納得できる方はいないだろう。狂気は本人では気づかない。よって患者たちは自らの苦痛を削減する手段を精神治療以外の何らかに求めることになる。ここに統合失調症ビジネスは浸けこんでくるわけである。

統合失調症ビジネスは統合失調症患者の苦痛を和らげることを高らかに謳いあげる。謳いあげる中身は先に紹介した統一化された妄想とマッチしている。これら悪質なビジネスを営む者にとって顧客のニーズは妄想が統一化されたことで把握しやすくなり、また「より顧客にあった商品・サービス」を提供することが可能になったのだ。具体例をあげれば、

1.集団ストーカーを撃退するとしている各種企業

2.電磁波攻撃に対処するとしている各種企業

3.盗聴器を発見するとしている各種興信所

などがある。これらの企業について詳しく知りたい方は「電磁波攻撃」や「集団ストーカー 対策」「盗聴器発見」などのキーワードで検索してみてほしい。(最初は具体的な企業名とURLを上げていたのだがビビリなので消してしまった)妄想が統一化されたことで今やこの3つのサービスだけで統合失調症患者たちの「ニーズ」のほとんどは満たせてしまうのだ。

ところで、3の盗聴器発見に関しては「妄想ではなく、実際に仕掛けられているのでは?」と思う方もいるだろう。私は盗聴器に関する全ての事例が統合失調症だと論じたいわけではない。然れども興信所の側からこんな話が提示されている。

盗聴・盗撮機器の発見業務は、依頼者の被害妄想の場合である割合が高く、トラブルに発展する可能性があるので、電話相談の時点で怪しい場合は依頼を受けないようにしております。
自分や親しい人間しか知り得ない事を、第三者が知っているとしたら、会話を盗聴されている可能性はあります。
しかし、ここまでなら盗聴器発見を依頼する動機として成立するのですが、寝ているとベットから痺れるような感じになる時があるとか、洗濯機やその他の家電品が勝手に動き出したり停止したりするという話が出てきたら、尋常ではありません・・・(茨城県探偵事務所・興信所のステルスリサーチブログ)

すなわち、(良心的な)興信所の側から示されているように、盗聴器に関する依頼は統合失調症の妄想の可能性が高いのである。その割合は詳しくは分からないが「高く」とあるので過半数以上は妄想なのだと推定できる。盗聴器発見に関してはこのように良心的企業も存在するため、全てが統合失調症ビジネスだと論じるつもりはない。詐欺などではなく、実際に盗聴器発見を請け負う企業がそれと気付かずに統合失調症患者から依頼を受けることもあるだろう。然れども、集団ストーカーや電磁波攻撃。これらは擁護できない。

このように企業として統合失調症患者にサービスを提供する以外にも商品としてモノを売る場合もある。

 

電磁波防御 ヘッドキャップ<< MDK307

電磁波防御 ヘッドキャップ<< MDK307

 

 

このような電磁波攻撃遮断に効果があるとする商品が典型例だが、中には盗聴器を強力な電波で破壊する、とか放射線攻撃を弾き返すなど荒唐無稽な商品も存在する。そんな「アリエナイ商品」でも苦悩している患者たちは藁をもつかむ思いで購入してしまう。まるでがん患者に霊験あらたかだという高い壷を売りつける霊感商法や健康に良いと理論不明な商品を高値で売りつける疑似科学商法のようだが、それとは別に統合失調症患者をピンポイントでターゲットにしたこれらの商法も増えているのである。

これが統合失調症ビジネスの現実である。雑誌やテレビなどで何度も批判されてきた霊感商法などと違って統合失調症ビジネスは(私が確認した限りでは)未だに取り上げられることがない。加えて認知機能障害や思考障害によって判断力や認知力が大いに鈍り、また家族関係や社会関係が破壊された統合失調症患者には、これらの商品を買わないように食い止めてくれる周りの人間もいない。このような商品を購入する統合失調症患者はかなり病状が進行しており、裁判沙汰などになりにくい(訴える能力すら消失している)というのも統合失調症ビジネスが「安全なビジネス」として広まっている理由かもしれない。結果として患者たちは自らの苦悩を病気のせいだとは気づかずに、原因をありもしない電磁波や放射線に求め、泥沼式にどんどんこれらの商品を買いあさるのだ。しかし、当たり前のように効果がない。そうこうしているうちに病状もますます悪化し、悪化したために出てきた新たな妄想に対処するために商品を買いあさり…こうした地獄めいた無限円環が発生している。このようにして病状が致命的に悪化し、それが周囲の人にわかるまでになった時に待っているのはトラジャディーだ。具体的事件を上げれば、周囲の者が盗聴して私を貶めていると主張し、隣人を刃物で刺した者。公道を走っていた無関係の車を集団ストーカーの手先だと勘違いし、殺してやろうと思い自分の車で突っ込み、双方が重傷を負った事件。市役所が盗聴し、また集団ストーカーしていると勘違いし、市役所に車で突っ込んだ事件。例を上げればきりがないが、このような最悪の結末が待っているのである。このような患者たちは容易に外に出てくることはできない。閉鎖病棟(より詳細に言えば一般の「閉鎖病棟」より更に隔離された場所である)などで長年過ごすのだ。もちろん、無実の被害者にとっても悲劇そのものであり、患者・被害者双方に深刻な、ともすれば回復不可能な後遺症を齎すのである。統合失調症ビジネスが統合失調症患者たちに悪影響を与えているのを見過ごすことは出来ない。

 

終わりに

 

ここまで統合失調症ビジネスについて長々述べてきた。これらの悪質なビジネスは統合失調症患者という弱者を食い物にし、また精神科に行くことを遅れさせ、患者にとって悲劇的結末を齎す。加えてツイッターや各種SNSを通した統合失調症患者同士の交流は、残念ながら妄想の強化にしかなっていないのが現状だ。類は友を呼ぶ、ではないが同じ妄想の者同士で集まり、外部からの声を排除してしまっては妄想が強固にならざるをえないのだ。また、妄想の特徴として外部から妄想を否定すればするほど妄想は強固に、複雑になるという厄介な性質がある。ツイッターなどで善意で統合失調症患者に「それは妄想だ」と訴える方がいるが、実はそれは逆効果なのである。一番良い方法は最初に上げた本の著者、林公一が述べているように、とにかく精神科に連れて行く以外にないのだ。

私がこれらの記事を書いたのは統合失調症患者の現実を知ってほしいからだ。統合失調症患者を取り巻く状況は、抗精神病薬の発明以前よりマシだとはいえ、ネットや統合失調症ビジネスのせいで年々悪化しているといっていいだろう。そんな中、あなたたち健常者の方々もこのような現実を知っていればなんらかの希望が生まれるかもしれないと判断し、このような長い長い駄文を書き連ねたわけである。どうか、少しでも患者たちの現実を伝えられたのならば幸いである。

この文には欠落が多い。例えば、統合失調症ビジネスの別の面、すなわち新興宗教などが統合失調症患者を食い物にしている実例や統合失調症自体の解説も十分とはいえない。新興宗教などが行う「除霊」には統合失調症患者たちが数多く参加している・させられている現状がある。つまり、古代日本で統合失調症患者たちが「狐憑き」として扱われ、村の柱に縛り付けられひたすら狐を祓ってくれるように神に祈ったように、新興宗教も統合失調症患者を「悪霊憑き」などと称し、除霊を行うのである。もちろん莫大な金銭を要求して。これらの実態についてはまた別の記事で解説したいと思う。また統合失調症患者を食い物にする悪質なビジネスの名前を表すのにいいものがあったら、どうか教えてほしい(統合失調症ビジネスじゃ微妙ですよね…)

最後になりますが、このようなとりとめのない長い記事を読んで頂きありがとうございました。

 

 

ガルパンおじさんとマレビト 関係と考察

はじめに

ガールズアンドパンツァー(以下ガルパン)劇場版が非常に好調である。私も何回も見に行ったのだが非常に優れた娯楽作であると言える。ガルパンはいいぞ。

 ガルパンといえばガルパンおじさんなる存在がある。彼らは(あるいは彼女らは)「ガルパンおじさん」という語が使われる時期によって具体的用法は異なるものの、2016年現在では善良なガルパン愛好家を指す名称となっている。

 かかるガルパンおじさん達はガルパンの聖地である大洗町に訪れ、そこで受け入れられている。私はここに民族学的特徴を見出した。すなわちガルパンおじさんはマレビトであるのだ。以下具体的論考をしていきたい。

 

マレビトとは何か

マレビトとは簡単にいえば異界から訪れてくる来訪神・客人神である。中世日本の村落社会で生きる者にとって自己の村落共同体以外は「異界」であり、これら異界の者を丁重にもてなした後送り返していた。

先にマレビトは「神」と述べたが実際に神がいたわけがあるまい。実質的にマレビトとされた者達は村落共同体から排除された者たちであった。具体的には

1.村八分的な刑罰により、または共同体の宗教規範に反したため村落共同体から排除された者

2.精神障害者(物狂い)

3.疾病(特にらい病)や身体障害(不具)がある者

の三種類から成り立っていたと柳田国男折口信夫は述べている。1や2はともかく、3のらい病患者や身体障害者がなぜ村落共同体から排除されたかと言えば、中世日本で広がった仏教的宿業観によって、らい病患者や盲目等の身体障害者は前世の罪によりそのような「穢れ」を負ったとされ、それ故に禁忌の対象として厳しく排除されたからである。このように村落共同体を追われた者は当然の結末として、各地を放浪しながら物乞いとなって命をつなぐしかなかった。これらの物乞いの様子は鎌倉時代初期の仏教説話である『発心集』でも描かれている。

 らい病患者や不具の者たちは一つには生きるためという実利的な理由として、物乞いの旅をしていたわけであるがもう一つに理由はあった。これらの前世の罪を背負った者が、各地を漂泊、もっと言えば霊地巡礼をすることで前世の罪が贖罪されると考えられていた。(折口信夫『小栗外伝』)このように贖罪の旅を続ける彼らの乞食行為は一種宗教的意味も含んでいき、村人が乞食に施しを与えるのは村人自身の贖罪行為にもなると考えられていた。このような構造は中世ロシアの遍歴巡礼(ペレホージェ・カリーキ)や聖愚者(ユロージヴィ)とも重なってくる。ロシアの彼らも聖書から題材をとった巡礼歌を歌い、乞食同然の身なりで喜捨を求めながら各地を遍歴した。ロシアにおいてもこのような旅の乞食は宗教的意味を多分に含んでいたのだ。もちろん彼らに施しを与えれば自らの贖罪行為になると考えられていたのも同一で、結果として無一文の「乞食」が物乞いで生きていけたのは─もちろん餓死することや野垂れ死ぬことは多々あったが─このような構造があったからである。

これらの漂泊の旅を続ける乞食は偶然立ち寄った村落において、神秘感を漂わせる異界からやってくる「マレビト」として迎えられたのである。これらマレビトは村人たちに手厚く歓迎されたが、村人たちの間には一種のアンビバレントな感情が存在した。

赤坂憲雄はこのように述べている

秩序と混沌という二元的世界観を生きる定住民にとって、<異人>は漂泊性を濃厚に帯びているがゆえに、秩序と混沌に相またがる両義的存在として立ちあらわれてくる。また、混沌自体が聖なる境域として創造と破壊という両義性を孕んだ象徴空間であることから、<異人>を迎える定住農耕民は怖れと敬いという両義的な心態に引き裂かれざるを得ない。そうした怖れと敬いという両義的感情を惹き起こすものは、むろん<聖なるもの>である。定住民の<異人>("まれびと")に向ける錯綜した心態は、それ自体<異人>の<聖なるもの>としての性格を暗示していると思われる。(赤坂憲雄『境界の誕生』)

 マレビトは俗世界(村落共同体)に属さないがために、穢れを帯びた存在として畏怖される。一方俗世界に属さぬがために聖別された異界の者として扱われた。このような構造におけるマレビトと村人の関係は両義的でもありアンビバレントであり、現在の視点から見ると理解しづらい。然れどもロシアの例を挙げたようにこれら異界の者を畏怖し、また聖なる者として歓迎する構造が世界中にあったというのは忘れてはならない。社会学デュルケームの『宗教生活の原初形態』の言葉を引用すれば「浄から不浄が作られ、不浄から浄が作られる」のである。

このようなマレビトは村から厚い歓迎を─それこそまさしく神のように─受けたのであるが、一方でマレビトも村の方へ「与える」ものがあった。各地を遍歴する彼らは村落共同体から他の村落共同体へ「知識」や「芸能」を伝えるものであった。原初的形態における交易の発端とみなしていいだろう。加えて社会学ジンメルが述べているよう、に経済史の始まりとしてこれら旅の者が共同体間の原始的な物質的交易を担っていたのも忘れることは出来ない。

 

ガルパンおじさんとマレビト

さて、今までマレビトなる概念を説明してきたわけであるが、では一体どこにガルパンおじさんと重なる要素があるのか。もちろん私はマレビトが古来日本のように「乞食」や「障害者」だと言いたいわけではないのをご注意願いたい。ガルパンおじさんの構造がマレビトと重なっている…こう言いたいだけであり他意はない。

まずガルパンおじさんなる概念が当初、否定的意味合いを多分に持っていたのを忘れることは出来ない。数年前のツイッターを覚えている者なら分かる通り、数年前は「善なるガルパンファン」はガルパニストと呼ばれ、または自称し、「悪なるガルパンファン」は自虐的にガルパンおじさんと名乗っていた。

この構造は長らく続いていくが2015年11月劇場版ガルパン公開後からガルパンおじさんという語の持つ負の意味は段々と払拭されていき、冒頭で説明した通り、善良なファンとしてガルパンおじさんという語が使われるようになってきている。

然れども現在でもガルパンおじさん、つまりガルパンを愛する者に善のイメージのみがあるわけではない。必然的に「オタク」というイメージが重なってくる。社会がオタクについてどのように対応し、オタクが苦しめられてきたかはあらためてここで語る必要がないだろう。つまりガルパンおじさんにはガルパニストという言葉から引き継いだ善良なイメージ、そしてオタクという言葉から引き継いだ負なるイメージ、この2つのイメージを両義的に有しているのである。そうまさしくマレビトが穢れを持ち不浄な存在ながら、同時に聖別された浄なる存在として見られていたのと同じ構造なのだ。

更に、近年急速にその用法が広まりかつてのような狂信的迫害を受けなくなったとはいえオタクという語、そして概念には多くの負の意味が癒着している。一般社会から外れた異常者、社会不適合者というイメージ。宮崎勤の事件でのマスコミの報道から見て取れるように凶暴で不浄なる存在というイメージ…。然れども日本政府はクールジャパン戦略と銘打ってこのようなオタク文化の海外輸出を目論んだ。このクールジャパン戦略に内包されるイメージはもちろん「オタク=善なるもの」の概念だ。つまりオタクという語自体もある種マレビトの構造を持っている。

約言すると、このように善と悪、浄と不浄の両義的意味を持つガルパンおじさんはまさしくマレビトと同一の存在だと言える。マレビトは自分の村落共同体から追い出され、別の村落共同体へ遍歴し、そこで<異人>として歓迎された。一方我々ガルパンおじさんも自分の共同体からはいい顔をされてはいないだろう。例えばガルパン痛車を作っても近所の人は白い目で見てくるかもしれない。だがそんなガルパンおじさんたちを受け入れてくれる別の共同体が存在する。そう、ガルパンの聖地である大洗町である。

大洗町ガルパンおじさんに対する好待遇は有名だ。我々ガルパンおじさんは自らの共同体から排除されるが、大洗町という共同体からは歓迎される。そう、まさしくマレビトが自分の村を追い出され、他の村を訪れ歓迎されるようにである。ガルパンおじさんは大洗町から来客神の如き歓迎を受ける。ガルパンおじさんはマレビトが交易を担ったように非常に近代的な対価、すなわち金銭を与える…。

加えてガルパンおじさんは、マレビトが物質的交換のみを担ったわけでないように精神的交換も担っている。日経新聞社の『おかわり おもてなしは戦車より強し――「ガルパン」で覚醒、大洗の魅力』という記事にはこんな話が乗っている。

 

そして、お店の人はまだ「ガルパン」をよく知らないケースが多い。店にパネルを置くことで興味を持ってもらい、少なくともそこに描かれたキャラクターについて、ファンと語り合えるぐらいになるのでは、という期待もありました。この作戦は大成功で、多くの店主がガルパンファンたちとコミュニケーションを取るようになります。長時間話し込んだり、ファン同士の交流の場となる店も出てきました。

マレビトが共同体から共同体へ知識を伝達したように、ガルパンおじさんも自らのオタク的知識を大洗町の町民たちへ伝達したのだ。ガルパンおじさんと大洗町の関係をただ単に物質的交換、金銭的交換だけと論じるのは誤っている。彼らはまさしくマレビトのように精神的交換も担っているのだ。

さて、このようなガルパンおじさんが大洗町に「聖地巡礼」を始めたきっかけとして挙げれているのが2012年のあんこう祭りだ。先の日経の記事にこう書かれている。

2012年10月8日、「ガールズ&パンツァー」放送開始。そのおよそ1カ月後に大洗で行われた「あんこう祭り」において、ガルパンで大洗を盛り上げる取り組みが一気にスタートします。出演声優も大洗を訪れて記者会見やイベントに臨み、大勢の人で賑わいました。

つまりあんこう祭りの影響でガルパンおじさんと大洗町民の「交易」が始まったわけであるが、このように「祭り」によって交易が始まるという現象が岡正雄の『異人その他』で述べられている。すなわち、このような交易・交換は神前で行われ、またしばしば祭日と同じである。そしてこの交易は相互義務において拘束され、経済的意味で恣意的に行われたのではない。

2012年のあんこう祭りではガルパンに関する催し物が数多く行われた。「聖地巡礼」という言葉があるように、言うまでもなく我々ガルパンおじさんにとってガルパンは神に等しい存在である。つまりガルパンの要素を多分に持っていたあんこう祭りは必然的に神と同等の存在であった。祭日とはその名の通り祭りの行われる日のことだが、この意味でもあんこう祭りは岡の言う案件を満たしている。

更にガルパンおじさん内部でも大洗町でのマナー論が盛んになっている。キャラクターのパネルに抱きつくな、店で騒ぐな、写真を撮るときは一声かけなさい等々…。これらのマナー論は特にツイッターでよく見ることができるが、この意味でも我々ガルパンおじさんと大洗町の間は相互義務的に拘束されており、どちらも「マナー良く」過ごすことで今の関係が成立した。もしガルパンおじさんがマナー違反を繰り返せば今の良好な関係は崩れてしまうだろう。筒井康隆の『農協月に行く』に代表されるように、高度経済成長期~バブル期の日本人旅行者に多かった「金さえ払えば何しても勝手」という資本主義的な身勝手な視点はここでは用をなしていないのだ。両者の相互義務的関係において担保されているのである。

ここまでガルパンおじさんと大洗町民の良好な関係を述べてきたが、当初大洗町の側には戸惑いもあったのではないか。例えば2chの長寿スレ『【キモオタ】オタクが嫌い気持ち悪い【立入禁止】』にはアニメで町おこしをした結果、地域住民が訪れたオタクをキモい・死ね等批判する書き込みが見られる。このように程度はどうであれ、一般住民にとってオタクが大挙して訪れるというのは一種の恐怖を伴っている。マレビトが歓迎されながらも畏怖されたように、我々ガルパンおじさんも来客神として歓迎されながらも恐怖される存在なのかもしれない。だがこれはあくまでマレビトという存在からの考察で、大洗町民がガルパンおじさん達を面と向かって批判する書き込みやツイートは(私が検索した範囲では)見受けられなかった。知っている方がいたら連絡願いたい。

 

終わりに

ガルパンおじさんは現在のマレビトである。彼ら・彼女らは自分の共同体から離れ、大洗町に行くことで畏怖と共に敬愛を受ける。マレビトは伝説では村民に恵みを齎すという。もちろんその恵みというのは物質的交換・精神的交換を表していたのが本当のところなのだが、大洗町にもガルパンおじさんというマレビトを歓待することで経済効果を齎した。これは伝説が現実になったと言えるだろう。伝説が現実へ…ガルパンおじさんはまさしく21世紀に蘇ったマレビト伝説の体現者なのだ。私もガルパンおじさんとして…オタクとして…すなわちマレビトとして大洗町聖地巡礼したいと思っている。

最後になるが、ガルパン劇場版は本当に日本の産んだ娯楽作の最高峰なので見よう!ガルパンはいいぞ!

 

参考文献(順不同)

戸井田道三『能 神と乞食の関係』

デュルケーム『宗教生活の原初形態』

折口信夫『小栗外伝』

ジンメル社会学の根本的問題─個人と社会』

赤坂憲雄『境界の発生』

スラヴィク『日本文化の古層』